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地域の発展と安全を守る OOI ZAOU GONGENJINJYA

プロフィールprofile

大井蔵王権現神社は、地域の皆様の親しみやすい神社を目指しています。

大井蔵王権現神社役員名簿                     
責任役職役職名 名前
代表・宮司 吉井 崇人
副代表 清田 忠道
会計 小林今朝治 
常任相談役  鶴見 一三 
常任相談役 浦山 嗣雄

大井蔵王権現神社由来

 此の辺り一帯、広町・大井一丁目は旧名を権現台・鎧ヶ淵と言いましたが、更に旧い時代は、品川原、又は大井の原、大井野、雲雀ヶ丘とも云って、雲雀の名所でその鳴き声の良さは、他境に類がないとされ、享保年間・八代将軍吉宗の時代から、毎年三月・四月頃雲雀狩を鷹を使って行い,遊客も亦多く集まって、その声を賞したと隣峨斉松江稿・磯ヶ谷柴江編の「南浦地名考(柴香会)」にも出ております。当社蔵の鷹の古画もこれに由来しております。
 又この辺り一帯特に立会い川をはさんで鎧ヶ淵一帯は桜の名所でもあり展望もよく、水清く流れに沿って水車がかかり風情の良さに花のころには各地から人を呼び、当時有名な俳匠「世塵」に、
 「水上の 花汲み得たり 水車」 と詠ませたのも実はこの地であります。

往古の東海道と太刀合、鎧ヶ淵
 この地は往古から人の行き交いが激しく、古文書にもこの地名が随所に現れ、権現台の頂の権現の森にあった蔵王権現と共に良く知られておりました。その旧い時代、東海道の一駅として大井駅はかなりの集落でありました。十世紀代 延喜式の式内に磐井神社・鹿島神社・來迎院・光福寺が出て居り、当時の東海道は厚木から小宮、新井宿から鹿島町に渉って大井駅があり豊島駅に至るもので、今も鹿島神社裏から、來迎院の東、光福寺から西光寺、大井三又の台地を降り立会い川を渡り、当社境内付近を経て権現台を昇り, 三木から居木橋の下流で目黒川を渡り、御殿山丘陵の裾を南から西へ廻り、下大崎宝塔寺の近くから白金の台地へ昇り、尾根道を豊島に至る小路が、今も通じて往古の東海道の名残を止めております。
又十世紀以前にも江原郡内の郷士が、防人として山陰道・南海道の警備に出陣する際 、この道の往還に別離の詩を万葉集に寄せております。又往時、両上杉・北条氏等度々合戦を交えた地でもあり太刀合(立会)関が原、鎧ヶ淵等の地名とこの縁を表しており、再度の合戦に武者の打死にするものも多く、霖雨のころには鎧武者の亡霊が、付近を一人通行する者の前にも表れ、それを口にした者には祟りがあると語り伝えられて、夜、しとしとと五月雨降る頃には、里人も恐れて鎧ヶ淵付近は通るものがいなかったと言われております。

権現の森の蔵王権現神社
 十一世紀の始頃、都から目代(代官)として紀氏が移り住み、大井郷として大井村・不入斗村・新井宿村を領事しましたが、紀守澄、兵三武者実直の子に至り、長男井坂平太実重は本館、二男大井共三二実治春は大森、三男の品河三郎清実は品川、四男の春日部左衛門尉実高は利根川辺りまで、五男の汐田五郎実元川崎、六男の堤六郎実能は池上から蒲田にかけて領有し交互に繁く交歓いたしました。
 東海道の往還に権現台の頂に権現の森があり東側に浅間坂(ゼームス坂)という小坂があって、大井原の一部ではあったが古き時、品川の民間はこの辺りに主としてあったので千軒台とも言いました。
 この権現の森の中に、九百年前とも千百年前とも定かではありませんが、いつしか蔵王権現神社の社が祀られておりました。これは当時赤熊権現とも呼ばれ、祭神は熊野権現(主祭神に須佐之男命、副祭神に金山彦命―金山毘古命・金山姫命ー金山毘売命)でありました。

新編武蔵風土記稿より
 その頃、社を毎日必ず参詣する人品卑しからぬ若い夫婦の姿が有りました。この夫婦は大井山光福寺の近くに住む者でありましたが、里人の間に何時しかこの人は鳥羽院(鳥羽上皇)の皇胤信光の嫡男で若くしてその才を買われ、和泉勅使から頭の中将とまでなった光政その人と、滋野井宰相の末女で光政の妻女の二人である事が知れわたり、人のそしりを受けて東海に配流となった公達の二人に心から同情するのでした。光政夫妻には子なく、せめて一子なりと儲けたいと願い、日頃常々信仰する蔵王権現に心願をかけて、祈りを捧げたところ、或晩、天から星が降りて胎内に入る夢を見て妊娠しましたので、蔵王権現の御利益と増々信仰を深めました。亦付近の名刹近在で最古の大井山光福寺の住持覺円律師に日頃師事しておりました。
 現在大井山光福寺は、浄土真宗東本願寺末となっており、開山は了海上人で、文永二乙丑才起立となっておりますが、それより前、円宗の霊跡で、当時の本尊は伝教大師の彫刻による聖徳太子十六才孝養の尊像であります。

大井
 時の住持覺円律師は、或夜寝ていると、うつつの内、夢枕に聖徳太子が立たれ「光政の胎児は権現の生まれ替わりであるからおろそかにしてはならぬ、新たに井戸を掘ってその水で産湯を使うようーー」とお告げがありました。そこで律師は光政夫妻や里人にその模様を具に伝え、直ちに人手を集め、光福寺の境内の松の樹の下に井戸を掘る場所をきめ、さて作業にかかろうと手を染めようとすると、大勢の里人の目前で不思議や立ちどころに大きな井戸が穿たれコンコンと清水が湧き出しました。これが後に「大井」の地名の縁源になったと伝えられる「大井」であり、その后如何なる干ばつに遭おうと涸れることなく永く里人の危機を救ったと言います。健保元年辛酉年林鐘十五日に丸々と太った男子が誕生しました。そして、夢のお告げの通りこの「大井」で産湯を使いました。偏に権現のおかげといわねばなりません。幼名を松丸と言い恙なく成長し松丸八歳に満ちた時に覺円律師に弟子入りし、その手で落髪し了海と号しました。
 光政夫妻は、これを喜び蔵王権現の旧堂を改築して、自ら経営、神体として金仏の阿弥陀の尊容を鋳造し奉納してその神意を感謝し改めて吾が子了海の成長と出世を祈願いたしました。後に「権現仏」と言ってその名を知られましたが、今はその所在が定かではありません。

了海上人
 京都(と滋賀にまたがる)の比叡山に登り修行して、高僧とうたわれる様になった了海は懐かしい故郷である大井に帰って来て大井山光福寺の再建を成し、中興の祖となりました。
了海上人は次に麻布山善福寺を開山しここに移り善福寺は真宗の寺門となりました。

再興・変遷

 上人の名声と共に、蔵王権現の信者は隆盛を極めたが、変遷あり、除地八畝十歩の神殿で毎年祭礼は九月三日に行われ、お神酒を供するのが恒例でした。付近の景勝と共に信仰の高まりはっ全部近在に及び、祭礼には各々講社を作って参詣するのを例とし往古千軒台品川の集落は、旅舎茶店等その為に賜ったと記されております。献額による講社名や住所を見ると、神奈川県横浜・川崎・鶴見・汐田・静岡県岩淵・栃木県樋口・千葉県松戸等が見られ、江戸でも本所・深川・浅草・蒲田・秋葉原・中野・芝・麹町・北千住・神田・王子・千住などの鳶や大工、火消し、茶屋や料理店、役者等水商売や威勢良い職業の人々の参詣多く、近くは河合組や錢高組の全部の支店や松竹映画株式会社等の名が有り、無病息災・家内安全はもとより育成育英の神として、また一度も火災に遭わない事から火防の神とし、火難病難・厄難厄除の神として一体の氏神としてばかりでなく、名勝の地としての遊客の訪れと共に広く江戸各地の的となっておりました。

 ところが、明治四十三年権現神社の鎮座する権現台を切崩し、鉄道工場とする事を時の政府が取り決め、昼夜兼行で工事が強行され、崩した土壌で品川駅操車場となった東京湾の埋め立てを行いました。(現在の品川駅操車場の土台は大井の土で出来ているのです。)
この時社殿は大井元芝の来福寺に移遷され、訪れるものも少ない状態となりました。

 一方急遽落成開場した鉄道工場では、構内堀削に従事した者の中から不慮の災いに遭う者が続出しました。又大井一円に、疫痢、腸チブス、赤痢等の疫病が流行し、氏子達の間に権現神社の旧い頃からの加護を忘れ、神をないがしろにした神霊の祟りと懼れる者が多く表れたのであります。大井には古くから桜井、秋本、安藤、山崎、荻原、相原、鈴木、柴崎、大場、酒井、秋元等の旧家がありましたが、これ等関係の古老と各地の旧い信徒が集り合い再興を計画しました。
 大井町第三代目町長、正三位男爵名和長憲氏は多数の町民の訴えを聞き蔵王権現再興を発会、会長に安藤甚三郎、世話人門倉増二郎を初め多くの知識人や知名人、尚会長を補佐して子爵建部光麿、渡辺伝四郎の諸子が連なり、賛助会員として鉄道者大井工場有志大栗逓三他多数、日本理化工業株式会社、合同毛織株式会社、牟田鋳工場、大井一二三会、神奈川・千葉・栃木・東京各地の講元の賛助で、日本理化工業株式会社社長大栗逓三氏の快諾により同社の一部を敷地に当てました。元位置に大正十四年十月三日社殿竣功、金山毘古命・金山毘売命、又中の大神を建速須佐之男命を迎え遷座祭を行いました。そして三間の新道を開き栄町としました。安藤甚三郎氏の祖父平左衛門氏は万事を世話に十月七日神璽を安藤家に移し頓宮し、十月九日同邸を出発、大井品川一二三会火消の木遣音頭の先導により元社殿へ奉還されたのであります。行列は「頭着くも尾離れず」と全都近在の信徒ことごとく参加したと言います。

 現在の社殿は昭和六十三年に氏子崇敬者の寄付により竣功、遷座祭を行い、昭和天皇崩御により平成二年に盛大に神幸祭を行い振るわいました。
又、令和元年五月十一・十二日に「遷座三十週年神幸祭」を、を中心に前後を高張提灯や猿田彦、神職、社銘旗、可愛い稚児達、裃姿の来賓・役員、笙・篳篥・笛の楽人、宮司・神職・巫女、白丁姿で厳粛に担ぎ出された本社神輿、大天狗の行列を組み、帰社後、天狗神輿を担ぎ出して参道を威勢よく練り歩き盛大に行いました。

      参考資料
        南浦地名考・新編武蔵風土記・近世の品川大井町史
        品川のお宮・大井町名鑑

大井蔵王権現神社

〒140-0014
東京都品川区大井1-14-8

TEL 03-3771-5288
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