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絵のない絵本式乗馬教室 (第20鞍)

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「先生、来年、東海道400年祭がありますね。品川にお住みだそうですが、どんな所ですか?」

「一口では言えません。」

「じゃ、少し詳しく説明して下さい。」

「どこから説明しようかな。そうだなー、山手線の品川駅の南にある町が品川です。品川駅といえば、東西自由通路ができて、新しくなりましたね。それから、品川インターシティ ができたり、新幹線の駅も工事しているし、ずいぶん変わりそうですね。高輪口はホテル街ですが、港南口はビジネス街に変わろうとしていますね。そういえば、歩くと、いや歩くしかないんですが、歩くと10分もかかる地下通路や、ゴジラの映画に出てきた古い品川駅の駅舎など、もはや、懐かしいものになってしまいました。ついでにいっておくと、品川駅から少し南下した所にある八つ山橋が、ゴジラの本土初上陸地点です。この橋を渡ると品川です。旧東海道にそって発展した古い町です。品川区の中で、北品川、南品川、東品川、西品川という住居表示になっているのが品川です。このうち、東品川は天王洲を除いて大部分が海だった所です。あとは二つに別れて、北品川は江戸時代には北品川宿、南品川は南品川宿でした。西品川は北品川宿だった所と、南品川宿だった所があります。京へ上る場合の東海道最初の宿 として、栄えた所で、現在でも、その面影が残っています。しながわ宿場祭りも毎年盛大に行われています。」

「先生、そんな通り一遍な説明でなく、住んでいる人にしかわからないことって、ありませんか?」

「うーん、じゃあ、南北問題東西問題について説明しましょう。」

「じゃあ、まず、南北問題から行きます。北品川宿と南品川宿は鎮守様が違います。北品川宿は品川神社、南品川宿は荏原神社です。ともに、家康公拝領の天下一嘗めの面があります。このお面はあっかんべーをしながら舌を出しています。それから、家光公拝領の御輿がありましたが、現存するのは品川神社だけで、荏原神社のは、祭りで御輿を海に入れていたので、とろけてなくなってしまいました。お面を御輿につけて、同じく御輿につけた太鼓を叩きながら、御輿を担ぎます。担いでいる人はあまり声を上げません。御輿のまわりでは笛を吹きます。これが、お祭りのスタイルです。」

品川で橋を渡るはしわい奴という川柳を知ってますか?」

「いいえ」

「北品川宿と南品川宿は目黒川で隔てられています。1956年(昭和31年)に売春防止法が施行される前は、江戸時代から続く岡場所でした。実際、この間新築のため取り壊された古い家など、内部は2畳ほどの部屋がたくさん並んでいたのがありました。この家は女郎屋だったわけです。またあるマンションなどは、大きな女郎屋のあとにたったので、自殺した女郎の幽霊が出て、夜中にすすり泣きの声が聞こえるという噂が立ち、陰で幽霊マンションと呼ばれていました。まあ、それはともかく、南品川宿の遊女の方が安かったので、橋を渡って南品川宿へ行く奴はしわい(けち)だと言ったのです。北には本陣もあり、やや高級な旅籠が多かったので、南を馬鹿にしていました。南は馬鹿にされたので、北を嫌っていました。これが、現代まで引き継がれ、南北の交流はほとんどありません。」

「へえー、そうだったんですか。」

「じゃあ、東西問題ってなんですか?」

「品川宿は昔から路地が複雑に入り組んでいて、庶民は長屋の生活をしてきました。路地には共同で使う井戸があり、今日まで残っているものもあります。風呂は当然、銭湯で、現在でも内湯を持たない家が多いので、旧東海道にそってたくさんのお風呂やさんがあります。海水湯という銭湯は、昔は海水をわかしていたらしいです。ここは日替わりで男女の浴室が変わります。」

「旧東海道沿いに古くからある店が並んでいます。品川商人の気質ってどんなものか知っていますか?」

「わかりません。」

「昔から、貧乏な長屋の住人を相手に商売をしていたので、客を馬鹿にして、慇懃無礼に接すると言うことです。これは、まだ少し残っています。」

「旧東海道沿いの町の西に、御殿山があります。」

「ええ、原美術館とか、御殿山ヒルズがあって、大崎へ下っていくと大崎ゲートシティとか、大崎ニューシティがありますね。」

「君は新しいことは良く知っているようですね。古い方はどうですか?」

「わかりません。」

「まず、御殿山の名前の由来ですが、太田道灌の居城がありました。現在でも、道灌道りという通りの名前に残っています。家康の時代になると、鷹狩りの休憩所ができました。このどちらかの理由で御殿山という地名になったようです。家光の時代になると、飛鳥山とともに桜を植えさせて、物見遊山の地となりました。鷹狩りの休憩所は参勤交代で登ってきた大名を接待するのに使われていたようです。このことは、御殿山の御成道という通りの名前に残っています。幕末には英国公使館が置かれていて、文久2年 12月12日には幕末の志士高杉・井上・伊藤らが公使館を焼き討ちしました。この焼き討ちの密議をおこなったのが北品川宿の遊郭土蔵相模で、土台だけは残っていたのですが、現在はコンビニになっていて、面影は全くありません。」

「あ、ついでに、家光が鷹狩りの休憩所にしたのは武蔵野市御殿山です。昭和39年までは吉祥寺という町名だったのが、29年に市町名整理調査員に委嘱された評論家の亀井勝一郎の尽力でこういう町名になりました。これがきっかけとなり、町内会が気に入って、町内会の集まりには酒持参で参加し、泥酔するまで飲んでいたという話が残っています。ついでに言うと、8代将軍吉宗は青砥へ鷹狩りに行っていたので、青砥の御殿山があります。」

「黒船来航に伴って、お台場が作られました。埋め立てに必要な土は御殿山を崩して運びました。これを御殿山の1回目の危機と言います。なお、この時もう一つの御殿山である八王子市の鑓水御殿山からお台場を作るのに必要な松の坑木を運びました。2回目の危機は明治の初期の鉄道の開通です。品川宿の人たちは駅ができるのに反対したので、鉄道省は当時波打ち際だった品川宿の北側を、御殿山を切り崩した土で埋め立てて品川駅を作りました。品川駅の南に北品川があるのは、こういう経緯があったからです。品川から南の方向の電車に乗ると見える崖はこの時できました。2度の危機を経て、御殿山はずいぶん狭くなってしまいました。」

「現在の御殿山は、東と西側は全て崖です。南側も大部分が崖になっています。車で行くとなると、御殿山に入る道が2本、出る道が2本しかありません。」

「話は明治に戻ります。御殿山に人が住むようになりました。例えば、日本の銀行制度を作った原六郎。広大な屋敷でした。現在では敷地の一部が原美術館になり、さらに大部分が森ビルに売却され、御殿山ヒルズができたわけです。ホテルの庭に1周1kmのジョッギングコースがありますが、広大な屋敷だったことがわかるでしょう。」

「それから、現在のミャンマー大使館のある一帯は三井財閥の実業家益田孝の屋敷でした。また、北側には三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の息子岩崎小弥太邸があり、これは三菱の関東閣として残っています。」

「御殿山には財界人が住み、品川宿には庶民が住んできたということです。財界人は金持ち、庶民は貧乏。品川神社の同じ氏子なので、祭りの相談はしますが、それ以外は、当然、こちらも南北同様人の交流はありません。御殿山に住むか、旧東海道沿いに住むかで、上の人、下の人という呼び方をする人もいるくらいです。御殿山の人は飲み会でも歩いていける北品川ではなく、青物横丁黒ちゃんまでわざわざタクシーで行くようです。御殿山は緑が多いので、散歩に適しています。ジョッギングコースもあります。旧東海道沿いに住む人が散歩に来て御殿山に住む人に会うと、卑屈に、”散歩をさせていただいています。”などという人もいるようです。つまり、黒沢明の名作天国と地獄のような世界なわけです。これを東西問題と言います。」

「先生は東西南北で、どこの人ですか?」

・・・・・・・

「あ、ずいぶん話が長くなってしまいましたね。では、練習を始めましょう。」

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