「あれは小学校5年生の頃でした、二手に分かれて火炎ビンを投げあって遊びました。」
「え!」
「じゃあ、時代背景から説明します。」
「まず、下の年表をよく見てください。」
年 月 日 |
出 来 事 |
1950年 6月25日 |
北朝鮮が38度線を越えて韓国に攻め込み、朝鮮戦争始まる |
1950年 7月 2日 |
大谷大学1年生の男子学生の放火により金閣寺炎上 |
1950年 7月 8日 |
マッカーサー、75,000人の警察予備隊(現在の自衛隊)の創設、 |
1950年 7月18日 |
マッカーサーの指令により、レッド・パージ(日本共産党の実質的な非合法化、 |
1950年 |
日本共産党の火炎ビン闘争 |
1952年 4月28日 |
サンフランシスコ講和条約締結(日本は独立し、レッド・パージ解除) |
1953年 7月27日 |
国連軍と北朝鮮の間で休戦協定成立 |
「私が火炎ビンを投げて遊んでいたのは小学校5年生の頃だったので、1959年でした。共産党の火炎ビン闘争は1950年から1951年にかけてでした。」
「火炎ビン闘争がおこなわれたのは私が2歳の頃なので、遊びの中心になっていた、つまり、ガキ大将の中学3年生の子がニュースを見てまねをしたのでしょう。」
「当時は、テレビはなかったでしょう。どうやってニュースを見たのですか?」
「前回、毎週1人で映画を見に行ったと言ったでしょう。」
「ええ。」
「映画は3本立てで、合間にニュースも上映されました。新聞にしても急ぎの写真は電送写真だったので鮮明でなく、ニュース映像は主として映画館で見ました。」
「火炎ビンなんか投げて、危険じゃなかったですか?」
「1人火だるまになりましたが、地面をころげて消したので、やけどはしませんでした。」
「子供がどうしてガソリンを手に入れられたのですか?」
「私が空の一升びんを持ってガソリンスタンドへ買いに行きました。たしか、一升で15円くらいでした。」
「どうして小学5年生にガソリンを売ってくれたのですか?」
「わかりません。のんびりした時代だったのでしょうか。」
「なんと言ってもチャンバラです。」
「この時代はチャンバラが盛んでした。鞍馬天狗の映画の影響でしょうか。当時は子供の遊びに対する映画の影響力は大きかったのではないかと思います。」
「ピストルでの撃ち合いです。勿論、本当に打ち合うわけではありませんが。」
「当時はBB弾なんてなかったので、撃つカッコウをして、ピストルの音は口で出しました。」
「先生は本物のピストルにさわったことがありますか?」
「いまだから白状しますが、小学生の頃持っていたのは本物のピストルです。」
「少しやましかったので、遊びには使わず、机の引き出しにしまっておきました。」
「中学生になってから、草むらへすてました。」
「先生、そのピストルはどうやって手に入れたのですか?」
「草むらで拾いました。」
「当時の銃器の現状はどうだったんですか?」
「子供だったので、社会全体ではどうだったかわかりません。しかし、私のまわりにはピストルからはじまって、散弾銃、照準鏡付ライフル、軽機関銃などがいっぱいありました。」
「そのころは誰でも銃を持てたのですか?」
「勿論、そんなことはありません。」
「例えば、家に制服のまま遊びに来たお巡りさんに、『ピストル貸して!』といえば、弾を抜いて貸してくれました。」
「それから、親父の友達のアメリカ空軍の中尉(キャプテン)は、ガンマニアで、自宅のパウダールーム、これはトイレではなく、文字どおりのパウダールームですが、ここに照準鏡付ライフルをはじめ、様々な猟銃も立てかけてありました。机の引き出しには、ハリウッド映画にあるように、勿論、ピストルがしまってありました。」
「キャプテンは単なるガンマニアではなく、銃の部品を手に入れ、銃尻を自分で作り、組み立てるのが趣味でした。」
「それから弾も自分で作っていて、作り方を教えてくれました。」
「それから、いつも葉巻かパイプを加えていて、このパイプも自分で作っていました。」
「キャプテンは、ほぼ毎日家に遊びに来ました。乗ってくる車は最初はルノーでしたが、途中からスポーツカーになりました。」
「どんなスポーツカーだったんですか?」
「ドイツ製と言っていましたが、よくおぼえていません。8気筒だったと思います。」
「『日本には、この車を走らせる道路がない!』と、乗せてくれるたびに、いつもぼやいていました。」
「当時の道路は未舗装か、舗装してあっても穴ボコだらけでした。日本はどこもかしこも貧しかったのです。」
「ルノーって、どんな車だったんですか?」
「フォルクスワーゲンに似た車です。」
「1959年3月10日に、BOACのスチュワーデス武川知子(27歳)が善福寺川で絞殺死体で発見されました。」
「カソリック神父で杉並ドンボスコ修道院のベルメルシュ・ルイズが犯人と目されましたが、色々な方面から捜査に圧力がかかり、そうこうしているうちに、この年の6月11日のエールフランス機で公然と帰国してしまった事件がありました。」
「やりきれない事件ですねえ。」
「ルノーは当時よく乗られていた車で、ドンボスコ修道院のルイズも乗っていました。」
「キャプテンはどうして毎日遊びにきたのですか?」
「キャプテンはこのほかにも、狩猟と釣りという趣味を持っていました。キャプテンは親父の釣り仲間だったわけです。」
「釣り仲間といっても、毎日とは、ちょっと多いんではないですか?」
「実は、狩猟に使うデコイを削っていたんです。家で削ると削りかすが出るので、奥さんがいやな顔をするらしいんです。」
「勿論、釣りが多かったけれど、基地の中へもよく行きました。」
「格納庫の中とか、今、パキスタンへ派遣が検討されているC130、滑走路のすぐわきで、戦闘機の離発着を見せてくれたりしました。」
「蒲鉾型の兵舎の食堂で食べたハンバーグが、生まれて初めて食べたハンバーグです。」
「当時、売っていなかったコーラも初めて飲みました。」
「チョコレートで包まれた、甘みの強いアイスクリームもおいしかった。アメリカ人は現在でも甘みの強いものをほしがるので、このタイプのアイスは現在でも相模原の工場で作られているそうです。」
「それから、時々入間のジョンソン基地のドライブスルーの映画館にも連れていってくれました。車に乗ったまま、アイスクリームを食べながら、映画を見るわけです。」
「クリスマスにはハーモニカをプレゼントしてくれました。音楽の授業で使う縦笛の練習をしているのを見て、音楽好きだと思ったのでしょう。キャプテンはとても気配りのきく人でした。」
「そのハーモニカはドイツで作られたもので、複雑な幾何学模様が施されていました。」
「重音ハーモニカで、吹き口は両側についていました。片側は長調で、その反対側は短調の曲を吹くのに使います。」
「突然思い出しました。」
「ナイロンの靴下ももらったのですが、現在はナイロンの靴下はある程度はくと穴があきます。」
「ところが、この頃はナイロンの丈夫さが強調されていて、靴下も非常に丈夫でした。はいてもはいても、足の皮がすり切れてもいつまでもはけました。そのため、売れ行きが悪いので、以後は穴があくように弱くしたそうです。」
「あります。しかし、お菓子をたくさん持った兵隊が小学校の校庭をうろうろして、『ギブミーチョコレート』と言って欲しいような目配せを盛んにするので、気の毒に思って言ってあげました。」
「どうなりました。」
「お菓子をもらいました。」
「キャプテンと行く時はマス釣りが多かったです。」
「子供同士で行く時は、それこそ、釣れるものは何でも釣りました。」
「それから、マッチと新聞紙と醤油を持って行って、釣れた魚はその場で焼いて食べました。」
「あ、そういうことだったんだ。」
「どうしたんですか、先生!」
「疑問が解けました。子供どおしで行くと、川に沿って空軍のF5ファントムという戦闘機が超低空で飛んでくることが、ままあったように記憶しています。」
「キャプテンと行くと、戦闘機の超低空飛行はなかったように記憶しています。」
「それがどうしたんですか?」
「キャプテンは戦闘機乗りで、『ジェット戦闘機は速すぎるので、釣り場をさがすのに苦労する』と、いつもぼやいていました。」
「あ、ずいぶん話が長くなってしまいましたね。では、練習を始めましょう。」
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