東京湾の城塞


【海国兵談】林子平(天明6年)
「江戸日本橋よりあみだまで境なしの水路なり。然るに此れに備えずして長崎のみに備ふるは何ぞや。小子が見を以てせば安房、相模両国に諸候を置いて入海の瀬戸に厳重な備を設けたきことなり。日本の総海岸へ備へることは先づ此の港口を以て始めと為すべし。是れ海国武備の肝要なる所なり」

品川台場

弘化4年(1847年)江戸幕府、お台場築造。
黒船来航に対抗するために、江戸幕府によって、品川沖にお台場が作られた。
幕府が鎖国令(寛政10年、1633年)を発して以来200余年もの間にわたって海外への門戸を閉ざしてきたが、寛永6年(1853年)6月3日アメリカ大統領の国書をもって東インド洋艦隊の司令長官ペリー提督率いる黒船4隻(蒸気船2隻、帆船2隻)が浦賀沖に姿を見せ、幕府は緊急防御対策としてお台場を設けた。
当初11基の築造を予定し、結果的には、品川沖に6基の台場を造りました。しかし、ついに使うことなく、放置されました。これが「品川台場」で、設計者は伊豆韮山の代官、西洋流兵学者としても知られていた、江川太郎左衛門。
当初予定では、前列西から第1、2、3、8、後列4、5、6、7、9、10、11。
六つの台場は、昭和の年代まで残っていましたが、東京湾を整備する必要から1基が取り除かれ、2基は品川埠頭の一部となり、原形を最もよく保存している第三台場と第六台場の二つだけが国指定の史跡に指定されて、今に残ったものです。
今は公園として都民の憩いの場となっている。砲台の台座はレプリカ。

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第一台場

嘉永6年8月着工、嘉永7年4月竣工。
現在の品川埠頭中央の位地。
陸軍省所管。
大正3年東京府所管。
大正6年緒明氏に払い下げ。
品川埠頭整備により埋没。

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第二台場

嘉永6年8月着工、嘉永7年4月竣工。
現在の東京西航路品川埠頭前の位地。
陸軍省所管。
大正3年海軍省所管。
東京西航路整備の為、除去された。

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第三台場

嘉永6年8月着工、嘉永7年4月竣工。
関東大震災で被害を受け、それを修復するときに陸続きになる。
陸軍省所管。
大正4年東京市所管。
昭和3年に整備して公園として開放しました。周囲は高さ5〜7mほどの石垣で、その上に土手が築かれています。北側には石組みの船着場跡があり、往時の面影をしのばせます。
お台場海浜公園として開放されている。

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第四台場

着工後7分にて工事中止。
現在の天王洲アイルの付近。

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第五台場

嘉永7年1月着工、嘉永7年11月竣工。
現在の品川埠頭北西岸壁の位地。
陸軍省所管。
大正3年海軍省所管。
品川埠頭整備により埋没。

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第六台場

嘉永7年1月着工、嘉永7年11月竣工。
陸軍省所管。
大正4年東京市所管。
今でも海上にあり、立入禁止になっています。そのため植物と野鳥の宝庫になっており、学術的にも貴重な存在といわれています。台場公園の土手に登って眺める第六台場と、広々とした東京湾の景色はまた格別です。
レインボーブリッジ台場側アンカレイジ南の位地。

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第七台場

着工後海面埋立てのみにて工事中止。代わって御殿山下台場が築造された。
現在の有明西運河西口の付近。

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第八台場

未着工。
現在の旧有明貯木場南端の付近。

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第九台場

未着工。
現在の豊洲埠頭北南東岸の位地。

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第十台場

未着工。
現在の豊洲埠頭中央の位地。

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第十一台場

未着工。
現在の豊洲埠頭北中央の位地。

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御殿山下台場

第七台場に代わって築造された。
現在の台場小学校の位地。

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土佐藩浜川砲台

現在の浜川中学校(東大井3-18-34)を中心とした地域は、かつて土佐藩の下屋敷があり、ペリー再来航後の安政初年に立会川河口左岸に砲台が設置されました。
新浜川公園に2015年に復元設置された「浜川砲台の大砲」は、この砲台に据えられた8門の大砲のうちの1つ「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を原寸大(全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートル)で再現したものです。
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観音崎砲台

観音崎台場/砲台
観音埼灯台をとり囲むように、観音崎の台地に砲台の跡が残っています。
海防のため、文化9年(1812)川越藩主松平肥後守によって造られました。
文政4年(1821)以後は、浦賀奉行所によって管理され、その後、慶応4年(1861)から江川太郎左衛門が引継ぎ、明治以後は、海軍省から陸軍省へと引継がれ、昭和20年(1945)8月15日の終戦まで管理されました。
観音崎一帯は明治14年に要塞となり、一般の人の立入りは禁止になりました。
第一、第二、第三、第四、南門、大浦、三軒家各砲台などや、火薬庫の跡など、今でも石組やレンガ造りの砲台の跡が残っています。


猿島要塞

猿島の呼び名については、建長5年(1253)5月、日蓮が房州から鎌倉へ渡る途中、嵐に逢い、舟の進む方向さえわからなくなったとき、一匹の白猿が舟の舳にたちこの島へ案内したという伝説による。
黒船がたびたび姿を見せはじめた幕末の頃、江戸幕府は海上防備のため、全国初のお台場と呼ばれる砲台を、猿島に3ヶ所建設し、黒船に対する守りを固めました。

明治10年(1877年)海軍省所管
明治14年(1881年)陸軍省所管となり砲台の築造に着手
明治17年(1884年)猿島要塞完成(本格的な洋式要塞)
大正14年(1925年)陸軍猿島要塞放棄、海軍省に移管(海軍要塞砲台完成)
昭和16年(1925年)高射砲陣地として高射砲5座配備
昭和20年(1945年)米海軍減磁ステーションとして接収(840坪)、高射砲爆破、加農砲接断
昭和36年(1961年)米海軍接収地返還

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要塞の切り通し
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兵舎1
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弾薬庫1
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兵舎2
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弾薬庫2
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トンネル 倉庫・兵舎・司令部
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トンネル 分岐
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第一砲台
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海堡

「海堡」とは、海上の要塞の意味。
ここでは東京湾防衛の為に、旧日本軍によって築かれた、人工の要塞島のことをさします。

黒船来航に対抗するために、江戸幕府によって、品川沖にお台場が作られたのと同じように、明治中頃から大正にかけて、千葉県富津岬沖から、横須賀沖の猿島要塞を含め、第一海堡、第二海堡、第三海堡と、当時の大砲の射程距離に基づく計算により、三つの人工要塞島が円弧状に築かれ、東京湾の防衛ラインが構築されました。

関東大震災
日清日露、第1次世界大戦を経て、日本陸軍は状勢に適応した要塞整備に着手した。しかし、大正10年12月9日、地震のため第2海堡防波堤に幅約15センチ程の亀裂が生じたほか若干の被害が出た。さらに翌11年4月及び8月26日午前10時頃、強震に見舞われて特に第2、第3海堡は甚だしい震害を受けた。
そこで、同年10月13日から復旧工事に着手し、翌12年3月に復旧工事が完了したが、半年を経ずして大正12年9月1日関東大震災に見舞われ東京湾要塞は致命的打撃を受けるに至ったのである。
各海堡は捨石を基礎としたため、その破壊状況は水深に比例して大きく、第3海堡については基礎を構成する防波堤、護岸が全部転覆してしまった。だが、それに比して第1海堡は被害が極めて少なく、第2海堡は両者の中間程度であった。
上部建造物の被害程度も基礎破壊の程度に比例し、第1海堡の被害は少なく、第2海堡においてはコンクリート構造物の壁に縦横に走る大亀裂を生じた。また、第3海堡においては中部及び頭部の一部を除きコンクリート建造物は全部海中に転覆あるいは大きく傾斜するに至った。

太平洋戦争
これらの海堡のうち、第1海堡は、第2次大戦中まで高射砲陣地が置かれたが、第2、第3海堡が関東大震災で大破し、第2海堡は竣工8年をもって全砲台が除籍処分となり、第3海堡は施設の3分の1が水没。火砲4門が金谷砲台、4門ずつが走水、千駄ヶ崎に転用。そして大正12年除籍となっている。
東京湾口では、旗山崎、第3海堡、第2海堡、第1海堡、富津岬を防潜網にて結び、その外側の浦賀水道に二重の機雷網を、昭和20年4月14日に敷設完了し、外湾口では洲ノ崎灯台沖ノ山に機雷礁を増設している。
海中防御の防潜網は、昭和26年に至って再び進駐米軍により同じラインで再敷設され、翌1月、富津寄りの南側に聴音機らしき水中工作物が増設され、漁船の航行が完全に遮断された。
平年推定漁獲高22,550トンは約70%の減産となり、昭和29年4月関係者による東京湾軍事施設被害対策委員会を組織。県と共に投錨禁止区域撤去と漁船航行のための防潜網の一部開口を要望。その結果、6月に第1海堡から第2海堡へ50メートルの間が開口された。昭和30年4月18日にこの防潜網は全部撤去された。

第一海堡

明治14年8月1日起工。明治23年12月20日竣工。職工人夫のべ316,770人。
水深約5メートルのところに建設されたのだが、地盤は貝殻混合の砂が1,2メートル堆積していた。地盤は弱く台風のたびに洲の形は変わっていた。
まず、大量の捨て石をして基礎を作り、そのまわりに御影石を並べて海面から1.7メートルまで積み上げた。そして最後に捨て石のすき間を砂で埋めた。
明治27年6月19日「海堡地管轄ノ件」が制定公布。これによって第1及び第2海堡は千葉県の管轄、第3海堡は神奈川県の管轄になった。

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第二海堡

明治22年7月起工。大正3年6月竣工。25年の歳月を要し、職工人夫のべ495,850人。
位置は第1海堡の西方2,577メートル、面積は41,300平方メートル。
その形は、円形の砲台部分が島の両端と中央部に有り、それらを結ぶ直線からなる「逆ヘ字型」をしています。
地盤は第1海堡と同様だったが、水深は8〜10メートルだったため第1海堡と同じ工法は通用しなかった。
まずは海面まで大量の捨て石を積み上げて徐々に面積を広げ、砂を大量に撒いて捨て石のすき間を埋めていった。
外周に御影石を投入する際は、投入場所を示すブイを使って船から石を投入。投入の度にブイの位置を少しずつずらしていったのだ。そうして外周の御影石を海面上2メートルまで積み上げてから内部に砂を入れて完成。
戦後、米軍によって武装解除された第二海堡は、その一部を、灯台、避難所、海上保安庁の訓練施設として使われてきました。

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第三海堡

明治25年8月捨石開始。明治40年3月竣工。捨石量275万立方メートル、捨土量80万立方メートルを要し、人夫はのべ435,290人。
第3海堡の頭部の長さは68メートル、中部の長さが177メートル、突尾部の長さが81メートルで総面積264,000平方メートルと文献には記されているが、今はほとんど崩れ去って見た目は岩礁のようである。
海堡の位置は走水低砲台と第2海堡との一直線上ほぼ中央で、第2海堡からの距離は2611メートルである。
海底の地盤は固かったが水深は39メートルもあり、潮流も速かった。
この第3海堡が建設されたのは短径1,800メートル、長径2,000メートルの岩礁の上で、そこを外れると急に深くなる沖根である。
潮流が秒速20メートルにもなる急流部に位置するため、世界中でまだ誰も成し遂げていないような難工事を強いられた。
しかし、大正12年9月におきた関東大震災によって、第三海堡は、ほぼ完全に水没し、現在では幾つかの岩が海面に顔を覗かせるだけとなり、放棄された。
近年、浦賀水道航路の安全確保のため、撤去工事が進められている。

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観音崎砲台

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北門第一砲台跡
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北門第二砲台跡
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観音崎水中聴測所

起工:昭和11(1936).7、竣工:昭和12(1937).6
聴測範囲:180度 聴音距離:約4000メートル(海上静穏な場合)
潜航の敵潜水艦を捕捉するため、観音崎先端の海中に設置したもの。直径4.5メートルの円形オープンケーソンを、現場の海中に沈め、発受信機を懸吊した。陸岸に、地下鉄筋コンクリート造の受電室・機械室・聴測室を設け、ケーソンの発受電機室には、陸岸から鉄製桟橋を構築した。なお自家発電所・燃料庫・脂油庫は南門第二砲台に隣接して設け、発電所・機械室・聴測室・発受電機室間に電纜を通した。
南門第一砲台のさらに先、海に突き出た部分に残る構造物。海上自衛隊の敷地内なので通常近付くことはできません。鉄製桟橋は撤去(流失?)したのか、陸とのつながりは失われています。現在も使用しているのかどうかは定かではありません。
ここのマイクで拾った海中の音を、ヘッドフォンをつけたオペレーターが探り、敵潜水艦を捕捉したらただちに隣の南門第一砲台に伝え、これを射撃する、という具合だったのでしょうか。


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新規作成日:2002年2月9日/最終更新日:2020年12月15日