幕末の海戦
下関戦争
長州藩攘夷決行
長州藩は、文久三年(1863年)五月一五日を攘夷決行の日として、下関通過のアメリカ、フランス、オランダの船舶を砲撃した。
馬関攘夷戦とも呼ばれる。
四国連合艦隊砲撃事件
これへの報復と長州藩や幕府の攘夷主義を粉砕するのを目的として、長州藩に対して、フランス、イギリス、オランダ、アメリカの四国が連合して下関砲撃すべしとの合意が元冶元年六月一九日決定した。幕府は静観するなか、連合艦隊が、七月二七日横浜を出港、1864(元治元)年8月5日、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊(軍艦17隻、備砲288門、兵員5014名)が長州藩の下関海岸砲台を攻撃、一部は上陸して藩兵と戦い、海峡沿岸の砲台を全滅させた。
長州藩内の尊攘派が攘夷を捨てて討幕派に成長する契機となった事件。
長州藩が用いた大砲はすべて戦利品として海外に持ち出された。
この内の1門はパリ・サンヴァリッド軍事博物館に保管されていて、1984(昭和59)年6月、貸与の形で里帰りしている。
現在レプリカが天保製長州砲として海峡のほとりに安置されている。
長州藩
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四国連合艦隊
- ターター /イギリス
- デュプレクス /フランス
- メトレン・クルイス /オランダ
- バロサ /イギリス
- チャムピ /オランダ
- レオパード /イギリス
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- パーシューズ /イギリス
- メデューサ /オランダ
- タンクレー /フランス
- コケット /イギリス
- バウンサー /イギリス
- アーガス /イギリス
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- セミラミス /フランス
- ターキャング /アメリカ
- ユーリアラス /イギリス 旗艦
- コンカラー /イギリス
- アムステルダム /オランダ
薩英戦争
1863(文久3)年、生麦事件を原因として、6月27日イギリス東洋艦隊7隻が鹿児島湾に侵入しを市街地を砲撃し、薩摩藩もこれに応戦した戦い。
双方ともに損害が大きく、11月に和議を結び、薩摩藩は生麦事件の償金支払と犯人捜査を約す。
この事件で近代的軍事力の威力を知った薩摩藩は積極的開国に藩論を転換、一方のイギリスも薩摩藩の実力を評価したため、以後両者は接近し提携するにいたる 。
生麦事件の後、イギリスは薩摩藩に対し賠償金2万5千ポンドと犯人の引き渡しを求めているが、薩摩藩では犯人の名をでっち上げてこれを行方不明とし、賠償金についても支払おうとはしなかった。
文久三(1863)年6月22日イギリス側は交渉を打ち切り、ユーリアラス号を旗艦とする7隻のイギリス軍艦が横浜を出港した。行き先はもちろん薩摩である。この艦隊には、イギリス東洋艦隊司令官キューパー少将の他、イギリス代理公使エドワード・セント、ジョン・ニール陸軍少佐や、当時まだ通訳生だったアーネスト・サトウも乗り込んでいた。イギリス艦隊は東洋艦隊の主力艦7隻により編成されていたが、これは、薩摩藩を攻撃するためというよりも、むしろその武威を示すことで、イギリス側の要求を通そうと考えていた。幕末の黒船来航以来、日本の統治機関であった幕府が、これまで幾度となく外国の圧力に屈してきたことから、地方小国にすぎない薩摩藩が、よもや世界最強を自負するイギリス艦隊に勝負をいどむなど考えられなかったのだろう。イギリスのこの楽観的姿勢は、ニールがイギリス本国のラッセル外相にあてた報告書や、艦隊が積んでいた石炭など補給物資が少ないことからもわかる。
6月27日、午後2時すぎ、イギリス艦隊は鹿児島湾に到着し薩摩藩でもイギリス艦隊発見の急報に対し総動員をかけ、各砲台に人員を配置し、食料、弾薬等を補給したが、この時点ではまだ両軍ともに砲火を交えることはなく、6月29日に、薩軍による英艦奇襲未遂(決死隊81人を商人に変装させて英艦に分乗させ、陸上からの合図で英艦隊の首脳を倒そうとした計画、英艦に乗り込むことはできたが、合図を待つ間に、いったん引き上げ命令が下されたため、中止となった。)があったことを除いては、書簡のやりとりや測量など、緊張しつつも静かであった。ところが、7月12日の払暁、突然イギリス側は薩摩藩の汽船三隻を拿捕しようとした。薩摩藩との数度の書簡による交渉に満足しなかったため、強行手段を用いれば満足すべき回答が得られると考えたのである。すぐに2隻の汽船が拿捕されたが、すぐにそれに気づいた薩摩藩が砲撃を加え、これにより薩英戦争の火蓋が切られたのである。
ここで両軍の戦力を見てみたい。まず薩摩だが、10の砲台に合計83門の砲を配置していた。その砲は、6ポンド、8ポンド、12ポンド、18ポンド、24ポンド、36ポンド、80ポンドの各砲や150ポンドの榴弾砲、そのほか臼砲等多種そろえていたが、旧式砲の寄せ集めでしかなかった。また、3隻の汽船もあったが、すぐに拿捕、焼却されてしまったため、戦力にはならなかった。さらに、3つの水雷が設置されたが、英艦が通過しなかったため、戦果をあげていない。
対するイギリス側では、7隻の軍艦に合計101問の砲を装備し、そのうちの22門は最新式のアームストロング砲であった。
戦闘の経過を見てみると、はじめは薩摩藩が、暴風雨の中砲撃を開始した。この先制攻撃はイギリス艦隊にとって予想外であったらしく、パーシュース号などは初弾数発が命中し、錨を上げる暇もなく、錨鎖を切断して逃れる有り様であった。また、旗艦ユーリアラス号も初弾を発射するのに2時間近くかかっているが、これは幕府からの賠償金のドル箱が弾薬庫のドアの開閉の邪魔になっていたためであり、イギリス側は全く不意をつかれた形となった。特にこの2隻は、横山砲台の真下にあったため激しい砲撃を受けているが、損害は軽微であった。このように、最初は英艦も混乱していたが、徐々に混乱も収まると、隊列を組んで反撃に出た。一度北上した後反転して南下し、また、天候の回復により、正確な砲撃で集成館、祇園州砲台を全滅させ、つづいて弁天波止砲台を攻撃した。この際に旗艦「ユーリアラス」号が偶然薩軍の射程距離内に入ってきたため、弁天波止場砲台の80ポンド、150ポンド榴弾砲により激しく砲撃され、甲板に直撃弾を受け、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐、他数名が戦死、負傷している。しかし、結局はそれのみが薩摩藩側の特筆すべき戦果であった。これに対し、薩摩藩側ではこの日だけで砲台を8割近く破壊され、また、集成館と市街地を1割(約500戸)を焼失している。
次の日の朝、英艦隊は戦死者を水葬すると、午後には抜錨して、未だ健在だった沖小島砲台等を攻撃しながら退却していった。
もう一度両軍の損害を見てみると、薩摩藩側は砲台を殆ど失い、汽船3隻を焼失してしまい、これ以上英艦隊の攻撃を防ぐ術がなく、また、集成館も焼失してしまい、自力での軍備の再編は不可能となった。また、市街地も1割ほど(500戸程)焼失してしまったが、これだけの被害を受けながら、戦死者5名、負傷者14名と案外少ない。これに対しイギリス側では、薩軍の先制攻撃に不意を突かれ数艦が命中弾を受けておりコケット号にいたっては自力航行不能となってしまったが、各艦ともかろうじて健在であった。だが、先に述べたとおり、もともと戦争をすることが目的でなかったため、石炭の備蓄が十分でなく、これ以上の戦闘は無理であった。また、戦死者11名、負傷者39名を数え、薩摩藩のそれと比較すると人的損害は大きく、しかもその中にはジョスリング大佐のような上級将校も含まれていた。
イギリス艦隊が鹿児島を去って4カ月後薩摩藩はは2万5千ポンドの賠償金を支払った。(この和議に対し、幕府は薩摩藩に7万両を貸し出して、イギリスとの友好を努めた。この後、イギリスと結びついた薩摩藩は、皮肉にも倒幕の中心となった。)これにより、一連の事件に終止符が打たれたわけである。
この薩英戦争の歴史的影響力を見てみると、一番重要な点は薩摩藩とイギリスが結びついたことで、倒幕運動の重大要素となった事である。また、藩内においてはこの戦争以後、下級武士の勢力が台頭し始め、倒幕への大きな原動力となった。また、この戦いでは、東郷平八郎を始め、西郷従道(西郷隆盛の弟)等、後の日本海軍の中心となる人物も参加していたが、彼らに海軍力の重要さを痛感させ、日本海軍創設の一端となる等、幕末における重要な転換点となった。
薩摩藩
- 白鳳丸 (焼失)
- 天佑丸 (焼失)
- 青鷹丸 (焼失)
- 永平丸
- 安行丸
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イギリス艦隊
- ユーリアラス 旗艦
- パール
- コケット
- アーガス
- ペルセウス
- レースホーク
- ハボック
第二次長州征伐
1866(慶応2)6月、下関における海戦(第二次長州征伐)で亀山社中は長州の軍艦「ユニオン号」(薩摩藩桜島丸、のち長州藩乙丑丸)に乗り組み、下関海戦に参加、幕府軍を相手に戦い、長州の勝利に大きく貢献する。
戊辰戦争/品川沖海戦
戊辰戦争/阿波沖海戦
1868年1月28日(慶應4年1月4日)
1868年1月24日(慶應3年12月30日) 幕府艦隊が集結中の兵庫港に薩摩艦「春日丸」「平運丸」「翔鳳丸」が入港
1968(昭和43)年1月25日(慶應4年1月1日) 「平運丸」が出港
幕府艦「開陽丸」「蟠龍」がこれを追跡し空砲を撃って停戦を命じるが、「平運丸」が応じなかったため実弾で砲撃
「平運丸」は兵庫港に引き返す
「春日丸」の士官が幕府艦の「平運丸」追跡と砲撃に抗議するが、軍艦奉行兼開陽丸艦長・榎本武揚は幕府と薩摩藩は交戦状態であるとして拒絶
1月27日(1月3日)払暁 薩摩艦3隻は兵庫を出港
「開陽丸」がこれを追跡
1月28日(1月4日) 阿波沖で幕府艦隊が薩摩艦隊に追いつき、「開陽丸」と「春日丸」が砲戦
「春日丸」は「開陽丸」より高速であったが(各速力16ノット、12ノット)、このとき「春日丸」は「翔鳳丸」を曳航していたため高速が出せなかった
「開陽丸」は「春日丸」の砲撃で被弾
「春日丸」は砲撃を中止し、「平運丸」とともに追跡を振り切る
「翔鳳丸」は由岐浦に擱座・自爆
戊辰戦争/徳川(旧幕府)艦隊の脱走
江戸城を開城させた官軍(政府軍)と新政府に対し、東北諸藩は「奥羽列藩同盟」を作って旧幕臣の抗戦派を加えて対抗する。
そんな中で、徳川海軍副総裁・榎本武揚(釜次郎)が率いる艦隊は江戸湾・品川沖にいた。(一部の艦船は朝廷・官軍へ引き渡しているがどれも旧式船だけ)。
官軍は陸では反新政府諸藩を圧倒できたが、海では徳川(旧幕府)艦隊を圧倒する力はなかった。幕府が恭順後、官軍は再三艦隊引き渡しを求めるが、榎本は断る。
慶応4年(1868年)8月19日、徳川慶喜と後を継いだ家定が駿河へ転封(国替え)になる。
徳川の処分が決まったのを見届けた榎本は、徹底抗戦派の幕臣を載せて蝦夷地(北海道)を最終目標とし、東北の奥羽列藩同盟を支援するため、開陽丸・回天・蟠龍丸・千代田形の軍艦4隻、咸臨丸・長鯨丸・美加穂丸・神速丸の輸送船4隻、合計8隻の艦隊で江戸湾を脱出する。
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幻の蝦夷共和国
まだ陸上で大砲を一度にたくさん移動できなかった当時、大砲をたくさん積んで移動し攻撃できる軍艦は強力な戦力だった。ところが、ここから榎本たちはツキに見放され始める。
艦隊は品川・浦賀を経て外海に出た房総沖で嵐に遭って艦隊はちりぢりバラバラ。開陽丸は舵を損傷。美加穂丸は銚子近くの黒生海岸で座礁破壊。
咸臨丸はマストを全て折って駿河へ漂着後、官軍に襲われて奪われた。
慶応4年から明治元年に改元された後、嵐でちりぢりになった艦隊は、ようやく仙台湾(松島湾)に集まるが、すでに奥羽諸藩は官軍にほぼ降伏・恭順していた。
戊辰戦争/宮古湾海戦
1869年5月6日(明治2年3月25日)
宮古湾に停泊中の新政府軍の軍艦「甲鉄(旧名、STONE WALL)」を幕府脱走軍「回天」が接舷襲撃(ABORDAGE)した海戦。
「開陽丸」を失った榎本武揚率いる幕府脱走軍(蝦夷共和国軍)が「甲鉄」奪取を計画。
最初、幕府脱走軍は「回天」「蟠龍」「高雄」の3隻で箱館を出撃。
「回天」には陸兵隊総督・土方歳三が乗り組み。
フランス人士官各1が各艦に乗り組んだ。
荒天で「蟠龍」が、機関故障で「高雄」が脱落。
3月25日早朝 「回天」がアメリカ国旗を掲げ、単独で宮古湾に侵入。
襲撃直前に旗を日の丸に変更し攻撃を開始。戦闘は約30分間。
「甲鉄」に乗り移った新撰組・野村利三郎、彰義隊士笠間金八郎、加藤作太郎らは戦死。
「回天」艦上では艦将甲賀源吾、軍監役矢作平三郎、海軍士官渡辺大蔵、川島金次郎らが戦死。
幕府脱走軍は襲撃に失敗、戦死者20余名を出し退却した。
戊辰戦争/箱館戦争
1868年10月〜1869年5月
新政府の幕府に対する措置を不満とする、榎本武揚を中心とした旧幕府軍2000人が、「開陽丸」を旗艦とする旧幕府艦隊8隻で江戸を脱出。
10月 箱館府知事を追放、松前城・江差を奪取 蝦夷地を手中にし、共和国を建国 新政府軍に抵抗した戦争。
新政府軍はアメリカから購入した新鋭艦を加えて攻撃。箱館(現在の函館)周辺で激戦を繰り広げ土方歳三ら多数の戦死者を出した。
榎本らは官軍黒田清隆ら降伏勧告を受け入れ開城。この戦いを最後に戊辰戦争は終結。
五稜郭の戦い。
榎本が率いる艦隊は会津など抗戦派武士・旧幕臣を収容して、蝦夷地(北海道)に向けて出発。
明治元年(1868年)10月19日函館の北、鷲ノ木に上陸。11月1日官軍の手薄だった函館を占領。さらに松前藩の江差を攻撃。
その最中の11月15日、この日は嵐だったそうで、なんと切り札の開陽丸が座礁・沈没。この後の11月24日輸送船・神速丸も江差で座礁して破船。
明治2年(1869年)、榎本ら旧幕臣たちは函館で蝦夷共和国を宣言した。そして「朝廷に敵意はないこと、幕府がなくなって暮らしに困る旧幕臣に蝦夷地を貸して欲しい」と願い出たが、官軍・新政府は認めなかった。
それまで表向きは中立(局外中立)を取っていた諸外国が、東北の平定などで新政府を承認して武器の売買を始める。徳川が幕府当時買い付けて留め置かれていた武器・軍艦、特に軍艦「甲鉄」が官軍の手に渡ることになる。
こうなると残った艦と陸軍だけではかなわず、明治2年5月18日、蝦夷共和国は降伏。結局徳川(旧幕府)海軍は実力を充分発揮することなく消滅。
ここで官軍の姿勢に変化が出る。
これまで「朝敵は処刑!」だった官軍も、戦いで相当の優れた人材が失われることのに気づいたのか、榎本ら生き残った蝦夷政府の幹部を助命し、後に政府に登用していく。
官軍・幕府軍ともに生き残った多くの人材は、維新の戦いを経て、明治政府・日本海軍へと引きつがれていく。
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新規作成日:2002年2月4日/最終更新日:2002年2月26日