平戸・長崎 阿蘭陀貿易
慶長5年 (西暦1600年) 、豊後国 (今の大分県) にオランダ船デ・リーフデ号が漂着した。このときの天下人は徳川家康。
家康は、デ・リーフデ号の船長に「日本に来たときはどこの港に寄港してもよい。どこの港で貿易してもよい」という朱印状を与え、船長の帰国を許した。
家康とともに、オランダとの貿易を希望していた領主・松浦鎮信 (しげのぶ) は、船長をマレー半島まで送り届けた。
ここから、日本とオランダの交易が始まった。
以来明治維新までの300年の間に、オランダは他国との争いの途中、オランダ本国やアジアの植民地に全くオランダ国旗が見られないという時代もあったが、日本の長崎・出島にはオランダ国旗がひるがえっていた。
平戸貿易
オランダ
慶長14年 (1609年) 5月、オランダ東インド会社 (東インド会社はイギリス経営のものなどもあった) から2隻の船が平戸に入港する。 その船はローデ・レーウ号とフリフィン号で、 オランダ国王オラニエ公モーリッツ名義の両国の通商を願う国書を携えていた。 徳川家康は、通商許可の朱印状を与え、平戸にオランダ商館が建てられた。 ここから江戸時代を通じ、およそ250年に渡る日本とオランダの特殊な関係が始まる。
リーフデ号の船長をマレー半島まで送り届けるほど積極的だった松浦鎮信は大変に喜び、オランダとの貿易を望んでいた家康から通商許可証である朱印状を得て、平戸にオランダ商館を設置した。
イギリス
平戸における貿易はオランダだけではなかった。慶長18年 (1613年) 5月にはイギリスが通商を求める。そして、松浦鎮信の好意的な返事の上に、家康の許可を得た。
このとき、家康はイギリスに「浦賀に商館を設置したらいい」とまで言うが、イギリスはその提案には乗らず、オランダと同じ平戸での貿易を選んだ。三浦按針 (みうら・あんじん) の日本名を得ていたイギリス人ウィリアム・アダムスもこのとき家康との交渉で活躍するが、もしこの「浦賀」の提案にイギリスが乗っていたら、日本の歴史も全く違うものになっていたことだろう。
ポルトガル
12世紀末、マルコポーロの『東洋見聞録』によって黄金の国ジパングとして日本が欧州に紹介されてから、世界の目には東洋に集まった。ポルトガル人バスコ・ダ・ガマは喜望峰を廻り印度に進出した。更にポルトガル人がマラッカを侵略し広東との貿易を始めたのは1517年であった。その後福建、寧波に貿易拡大中漂流して初めて種子島の地を踏んだのが1543年(天文12)であった。
王直(明人海商)の手引きもあって、ポルトガル船が初めて平戸に入港したのは1550年(天文19)ドワルテ・ダ・ガマの船が最初である。時の領主松浦隆信(道可)は中国貿易の経験により、外国貿易の有利なことを知っていた為、大いにこれを歓迎し、貿易と分離することのできないキリスト教の布教も認めた。ザビエルの平戸布教もこの時である。
1553年以後は毎年一隻から二隻のポルトガル船が来航し、1557年からはポルトガル政府の官許船が入港するようになると、当時中国との交易が禁止されていた日本に於ては、中国産の生糸と日本の銀との交換はポルトガルの独占する処となり、ポルトガル人が貿易船を銀の船と呼ぶほどであった。また多くの大陸物資・文化が平戸を通じて日本にもたらされ、やがて平戸には京都、堺の豪商はもとより多くの外国商人が集まり「西の都」と呼ばれる程の賑いを見せた。
しかし領主隆信はポルトガル船の入港を歓迎したが、キリスト教に好意を抱いていたわけでなく、布教が盛んになると、そこに複雑な関係が生じるに至った。宣教師の処遇で仏教徒との板ばさみになり、加えて1561年には言語不通が原因でポルトガル人と日本人の間に争いが起り、ポルトガル船長以下十数名の死傷者を出す事件(宮ノ前事件)が生じた。その結果ポルトガル船は大村領横瀬浦、福田港を経て長崎に移るに至った。こうして平戸の対ポルトガル貿易は15年間で終った。
主な輸入品は、生糸、絹織物、びろうど、白粉、陶器、麝香(じゃこう)、鉛、砂糖。
輸入品のほとんどは中国、南洋の物資であり、ヨーロッパの品々は諸侯への贈答品とした。
主な輸出品は、銀、小麦、漆器、船材。
平戸の繁栄は10年ほど続くが、インドに全力を注ぎたいイギリスは元和8年 (1622年) に平戸の商館を閉鎖する。翌々年の寛永元年 (1624年) には幕府はイスパニア (現スペイン) 船来航を禁止、同12年(1635)には、日本人の海外渡航と海外在住者の帰国を完全に禁止し、寛永13年 (1636年) にはポルトガル人を長崎の出島に移し、厳しい管理を始めた。
その翌年の島原の乱 (1637年〜38年) ・天草の乱は「キリスト教による宗教一揆」という面もあるが、実は「宗教一揆」ではなく、過酷な年貢取り立てに対する「農民一揆」の側面の方が強かったようだ。「島原の民はよく生きている」と隣国の民に言わせたほどだった。
乱を平定した徳川幕府は鎖国を決め、平戸のオランダ商館も長崎の出島に移すことにした。長崎・出島は徳川幕府の直轄領。「オランダを管理」は表向きで、実はオランダ貿易の利益を平戸藩から幕府に移すという狙いもあったようだ。
イスパニア/スペイン
長崎阿蘭陀貿易
長崎・出島は外国に開かれた唯一の窓として働き始めた。
そして、幕末、ペリー来航により、開国されるまで、この体制は続く。
しかし、寛永16年(1639)ポルトガル船の来航が禁止され、オランダ人には、翌年、平戸の商館を閉鎖し、 それまでポルトガル人を収容していた長崎出島に移転することを命じた。 寛永18年(1641)オランダ商館の長崎出島への移転が行なわれ、 ここに、オランダ・中国のみに交易を許すという鎖国体制が完成した。 オランダは、長い間ポルトガル・スペイン・イギリスなどの商敵と 日本貿易をめぐり商戦を繰り広げてきたが、 ヨーロッパの国としては唯一日本との貿易を独占するに至ったのである。 日蘭貿易は、時代により、その仕組みや交易品は変化していた。 当初はオランダ側の有利な条件のもと、自由に貿易が行われたが、鎖国政策の強化とともに、 さまざまな制限が加えられ、規制が行われている。 それまで、国内の商人に任せていた貿易は、 元禄11年(1698)の長崎会所の設立により幕府が管理するようになり、 以後統制貿易が行われた。 生糸中心の輸入品は織物や砂糖などに変化し、次第に雑貨類も増加していった。 そのような雑貨や器物は、日本人にしてみれば珍奇な物で、すぐに興味の対象になったのである。
カピタン (商館長) は1年任期。間をおいての再任はよいが、連続は許されず、カピタンは毎年替わっている。ただ、その下のスタッフには連続して滞在する者もいたようである。
商館員は出島の外に出ることを許されなかった。唯一の例外は毎年3月の江戸における徳川将軍との商館長の面会で、商館員はそれに随行することで日本の風物を楽しむことができた。(途中から5年ごとに変更された。)
長崎港に入港したオランダ船は、出島の沖に停泊、荷物は小船で出島に運ばれた。
出島には様々な貿易品が舶載されたが、それらの品は、出島乙名の立ち会いのもとに入札された。反物はアジア産とヨーロッパ産があり、人気商品であった
オランダ船の来航は、毎年4〜5月頃で、挽舟に引かれ、空砲を発射しながら入港した。
出島にはカピタン(商館長)をはじめとし、オランダ東インド会社の職員や商人たちが居住し、その中には通詞(通訳)部屋とか倉庫部屋とか、その他いろいろの区画が狭いところにひしめいていた。オランダはヨーロッパや南方の珍しい品々を日本に輸出したが、その中でもトップにあげられる商品は、なんと白砂糖であった。このおかげで、長崎では、金平糖や、マルポーロや、カステラなどのほか、種々の珍しい菓子ができるようになったことはご承知のとおり。
当時輸入されたものの中から、主たるものを拾い上げると、象牙、鉛、水銀、鮫の皮、毛織物、更紗、時計、外科道具、遠眼鏡などとなっており、日本からは陶磁器をはじめとして、金、銀、銅、蒔絵、漆器、しゅろの箒などが輸出されたようである。
オランダ貿易での主要な輸出品は、最初は、銀や金であったが、18世紀以降は、銅であった。この銅は、棹銅と呼ばれ、大阪の銅座で精錬され、長崎に運ばれたが、一時、長崎の銅座でも精錬された。
これらの商売には、当然のことながら通詞(通訳)が必要であった。通詞は今日でいうインテリの代表であり、たいへん高い社会的地位を持つと同時に強い権限も持っていたようである。この通詞の中から、のち、有田の窯焼きを育てて指導する人物も出てくるわけであるが、いずれにしても、彼らが日本の近代化に貢献したことはだれしも認めるところであろう。
長崎版画
長崎来航の唐人、オランダ人、長崎の風物、唐船、和蘭船を主題に制作されたもので土産品として売買された。
蘭人の外科治療もまた鎖国に生きる人々には、不思議な治療法であったのだろう。
オランダ人たちが日本にやってきてまず驚いたのは、自然の風物が母国オランダと全く異なっていることであった。地図を見てもわかるとおり、オランダの位置ははるか北にあり、植物などは、種類がきわめて少なく、あまり育ちのよいところではない。ところが温暖な気候を持つ日本では、豊富な各種の植物が生い繁り、豊かな緑が山や野を埋めていたのを見て、眼をみはったことであろう。
さらに、中国や日本を含め、東洋では古くから、これら多様な植物を利用して、あらゆる種類の薬草が広く用いられていることを知った彼らは、日本の植物に大いなる興味を示し、出島の中に試験薬草園をつくって、積極的に日本の植物研究を行ったという。
商館付の医者は、単に病人の治療が目的ではなく、それ以外に、東洋や日本のあらゆる文物を採集し、研究してくるよう命じられていたふしがある。
長崎中国貿易
清の貿易船は、江蘇、浙江、台湾などから来航した。
寧波船 ニンボー船
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長崎出島
オランダ東インド会社の商館が置かれた長崎出島は、日本でありながらオランダ人が起居し、ヨーロッパの生活がそこで営まれていた。 出島は、面積わずか4000坪弱の扇形の人工の島で、 商館長宅・商館員宅・倉庫・炊事場・家畜小屋・番所などの和洋折衷の建築物が並び、 他に薬草園・花畑・国旗掲揚のポールなどもあった。 しかし、橋の向こうの日本への外出は厳しく制限され、商館員をして 「国立の監獄」といわしめていた。
一方、日本人にとっても橋の向こうは異国であり、 出島や、そこに住まう オランダ人は、常に興味の対象であった。 長崎出島の存在自体が、阿蘭陀趣味の原点ともいえよう。 出島の風俗やオランダ人を描いた絵画がたくさん制作され、日本人の興味を満たしていった。 描かれるオランダ人の様子もさまざまで、比較的現実に近いものから、 まったく想像で荒唐無稽な「変なオランダ人」まで見られる。 また、学問的な蘭学とは異なるが、まじめに海外情報を伝える「増補華夷通商考」 なども刊行され、 わずかながらではあるが、次第に庶民にも海外の知識が及ぶこととなる。 この他、海外の情報が虚実ない交ぜながら、刊行の形で世にでていく機会が増えた。
200年以上も日本の唯一の窓口であった出島だが、その広さはわずか3924坪しかない。1坪は1.8m×1.8mですから、3924坪は約1万3千平方メートル。正方形に直すと114m四方くらいの大きさ。当初、ポルトガル人用に埋め立てて用意した土地だったが、島原の乱後にポルトガル人は全員国外退去となったため、ここがオランダ貿易の拠点となった。
この「狭い」土地 (出島) の中に、多いときで65棟、人員も50人から80人も住んでいた。オランダ船が入るのは、季節風の制約から毎年7月の1回だけであった。
一番蔵
砂糖を保管するための2階建ての土蔵であった。
二番蔵
輸入品の蘇木(染料の原料)を保管するための2階建ての土蔵であった。
一番船船頭部屋
オランダ船の船長や商館員が居住していた1番船船頭部屋。オランダ人は2階に住み、
1階は倉庫として使っていたようだ。
ヘトル部屋
商館長(カピタン)の次に偉い商館長次席(ヘトル)の住居だった。緑色の物見台が特徴的な建物である。
料理部屋
オランダ人に提供する食事を作る場所であった。
調理室には、商館に雇われた3人の日本人の料理人がいたが、彼らを通じて、長崎の町にオランダの料理が伝えられた。
出島の花畑には、牛や山羊、猿などが飼育されていたが、牛や山羊などは、食用とされた。
ビリヤードは1570年代にフランスで考案されたが、出島には寛政の初め(1790年代)にもたらされた。遊女部屋に置かれ、商館員の格好のレクレーションとなった。
蘭学
蘭学とはオランダ船によって伝えられるヨーロッパの天文学、医学をはじめ自然科学や人文科学の全般を総称していう。
長崎の出島にはオランダ貿易を通じ、商品だけでなく、ヨーロッパ文明も同時に持ちこまれた。天文学書、医学書など各学術書も輸入された。鎖国当初には幕府は書籍類の輸入を厳しく制限したので、蘭学も極めて限られた人達(蘭通詞や幕府高官に縁故のある人達)だけであったが、享保5年(1720) 将軍吉宗が洋書の輸入解禁令を出し、蘭学の奨励策を取ったので急速に盛んになった。医学を中心に、天文、物理、地理をはじめ、あらゆる部門の研究が進歩した。この伝達の役をしたのは長崎の蘭通詞であった。
明治以後の日本の近代化が驚くほど早く進んだのも江戸時代の蘭学が下地に十分あったからである。
シーボルト
文政6年 (1823年) 、オランダ商館付き医師として来日したのが、ドイツ人医師・シーボルト。ドイツ人でありながら東洋、特に日本に関心が強かったシーボルトは、インドのオランダ営東インド会社に頼み込み、オランダ人医師として来日する。
シーボルトは、特に幕府の許しを得て、長崎市郊外の鳴滝に塾を開き、診療と、日本人に対する西洋医学教育を行いました。高野長英や湊長安ら数十人の弟子がおり、江戸に上ったときには大槻玄沢や (エゾ探索などを行った) 最上徳内などとも知り合い、交流を深めた。シーボルトは「医師」の立場で来日したが、今表現するなら「博物学者」とも言え、動物学、植物学、天文学、地理学など、自然科学のすべての分野の研究家でもあった。それも「日本に興味があって」東インドまで行き、頼み込んで商館員の立場をもらい、「国外追放」とされても「故国を捨てて日本人になる」と言ったほどの「日本びいき」だった。
シーボルトの帰国時、台風で船が難破、海岸に帰国時積み込みのシーボルトらの荷物が打ち上げられた。幕府の役人が検分したところ、そこには「国禁」の日本地図があった。
この日本地図は、有名な伊能忠敬が17年も歩いて作成した「伊能図」と呼ばれるもので、伊能忠敬による日本最初の全図。
忠敬はこのときすでに死去、その地図の清書を何年もかけて仕上げたのが、幕府の天文方 (今の天文台所長) ・高橋景保。伊能忠敬は、景保の父である高橋至時 (たかはし・よしとき) に、天文や地理、測量を学んだ。
景保は、父の教え子であり部下である伊能忠敬の業績を尊重し、幕府に地図を上呈するときに、「高橋図」とはせず、「伊能図」とした。上司である「高橋」の名を付けられる立場であったにもかかわらず、景保は部下である伊能忠敬の名を、幕府に残している。
これほどにさわやかな人格を有した好青年の景保だが、「誰がシーボルトに日本地図を渡したのか」との徳川幕府の捜査に対し、間宮林蔵は「景保が渡した」と密告する。
その結果景保は捕らえられ、獄死。幕府はその遺体を塩漬けにし、裁定が下るまで遺族に渡さない、というほどの怒りを示した。
間宮林蔵は、天文・地理・測量を、伊能忠敬に教わっており、恩師である忠敬を教えたのは、高橋至時であったから、間宮林蔵からすると、密告して獄死させた景保は、恩師すじの子供にあたる。
樺太と大陸との間が入海 (いりうみ) ではなく海峡である、と最初に発見したのは間宮林蔵で、その名が「間宮海峡」の名で残っている。世界地図に日本人名が付いているのはこの間宮海峡だけだが、その名が残ったのはシーボルトの地図に書かれていたからに他ならない。
シーボルトが持ち出そうとした地図はすべて没収され、シーボルトも永久国外追放(日本が鎖国を解いたあと、再度来日している) になるが、シーボルトは没収されたもの以外にも地図の写しを持っていた。
シーボルトは、出島に出入りしていたおたきと夫婦になり、おいねという子供をもうけている。「おたきさん」が好きだったアジサイの花を「おたくさ」と名付け、愛でているが、長崎に残るシーボルトの旧居 (跡) には今も、アジサイがたくさん見らる。
国外追放の際、シーボルトは「故国を捨てて日本人になる」とまで言ったにもかかわらず、幕府はシーボルトを追放した。
その結果、ドイツに帰国したシーボルトは豊富な資料をもとに「NIPPON」という本を書いている。その「NIPPON」をすみずみまで読み、東京湾の形を知り、東京湾最奥の「江戸」に住む徳川将軍が最高権力者であることを知って、艦隊を率いて日本にやって来たのが、アメリカのペリーである。
(歴史に「もし」は存在しないが) 、もし、江戸幕府がシーボルトの帰化を (優しさと思いやりに満ちた心で) 受け入れていたならば、多分「NIPPON」が書かれることも、読まれることもなく、ペリーが日本に来ることもなく、江戸幕府が崩壊することもなく、幕末維新もなければ富国強兵もなく、太平洋戦争もなかった、といえるかもしれない。
帰国したシーボルトは欧州の列強国を回り、美しさや礼節に満ちたこれほどに素晴らしい国ニッポンを、決して植民地などにはしないように、と働きかけている。そのおかげで、日本は、他のアジアの国々とは全く異なる扱いを受け、植民地化されることもなかったと言えるかもしれない。幕府から冷たい仕打ちを受けたにもかかわらず、シーボルトは最後まで日本を愛し続けている。
そして、娘のおいねは、日本で初めての西洋医学の女医になり、多くの日本人を治し、多くの人から慕われ尊敬されてその一生を終わっている。
シーボルトの日本研究
シーボルトが日本で調査・研究した分野
宗教、政治、習慣、法律、地理、農業、音楽、美術、風俗、言語、民族、 鉱物、動物、植物、薬草、医学、歴史、日蘭貿易、日本の周辺地域
シーボルトが日本で収拾し、持ち帰ったもの
工具、調度品、硬貨、衣料品、楽器、漆器、陶磁器、生活用品、書物、 地図、玩具、植物、動物標本、絵画、彫刻品、論文、面、武具、武器、アイヌ関係品
川原慶賀
長崎の町絵師であったが、シーボルトの御用絵師として実に膨大な数の絵を描いている。
唐蘭館絵巻の描かれた時期はわからないが、慶賀の晩年(1860年頃)と考えられている。本図には、オランダ商館における会食の場面が描かれているが、緑色の帽子の人物がシーボルト、その後の水色の着物の女性がおタキと考えられている
リンデン
オランダ国王の侍従長で、安政2年(1855)に長崎に来て、約4ヶ月間滞在した。「日本の思い出」は、帰国後の1860年に刊行された。
その他
1690年にケンペルが、1775年にはツェンベリーが、オランダ東インド会社商館付医師の資格で来日しそのいずれもが日本の植物をくわしく調べ上げ、帰国後、日本植物に関する研究を一冊の本にまとめて発表している。
[平戸]
◎オランダ商館跡地 長崎県平戸市
◎平戸観光史料館 (0950-22-2813) 長崎県平戸市大久保町2496
\300 8:00-17:00 ジャガラ文、山鹿素行・赤穂志士の展示他。
◎松浦史料博物館 (0950-22-2236) 長崎県平戸市鏡川町12
\500 8:00-17:30 年末始休館 オランダ船船首木像の展示他。
◎平戸城 (0950-22-2201) 長崎県平戸市岩の上町1447
\500 8:30-17:30 年末始休館 松浦氏関係の展示他。
[長崎]
◎ハウステンボス・長崎オランダ村 (0956-58-0080)
・ハウステンボス (0956-27-0001) 佐世保市ハウステンボス町1-1
\3900- 9:00-21:00。威臨丸★、観光丸★:幕末の洋式軍艦の複製で、乗船航海出来る。
デ・リーフデ★:最初に日本に来たオランダの帆船の複製。大航海体験館、帆船博物館他。
・長崎オランダ村 (0959-27-0080) 長崎県西彼杵郡西彼町 *2001?閉館*
\2500- 9:00-17:00。プリンス・ウィレム★:17世紀の最大級の木造帆船の複製、帆船資料館他。
◎長崎市立博物館 (095-845-8188) 長崎市平野町7−8
\100 9:00-17:00 月曜休館 長崎オランダ貿易の展示他。
◎シーボルト記念館 (095-823-0707) 長崎市鳴滝2−7−40
\100 9:00-17:00 月曜休館 シーボルトに関する展示他。シーボルト宅跡地に隣接。
◎出島和蘭商館跡:長崎市出島町
江戸時代の長崎出島跡。復元ミニ出島が、公園内にある。堀の壁はレプリカ。
・出島史料館本館・分館・二番館 (095-821-7200) 長崎市出島町6−3
\300 9:00-17:00
◎出島資料館 (095-821-5117) 長崎市出島町9−22
◎長崎市歴史民俗資料館 (095-847-9245) 〒850-0018 長崎市上銭座町3−1
\0 9:00-17:00 月曜休館 ポルトガル展示室。
◎旧長崎税関下り松派出所の建物 長崎市松が枝町4−33
◎旧香港上海銀行 長崎市松が枝町4−27
\100 9:00-17:00 年末年始休館
◎長崎近世遺跡資料館 (095-824-1503) 長崎市興善町4−5
9:00-17:00 日曜祝日休館 末次船絵馬の展示他。
◎長崎県立美術博物館 (095-8245-8188) 長崎市立山町2
◎グラバー園 (095-822-8223) 長崎市南山手町8−1
8:00-18:00 長崎港が望める
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新規作成日:2002年2月2日/最終更新日:2002年2月4日