御座船

御座船

江戸時代、鮮やかな漆塗(うるしぬ)りで仕上げられ、さまざまな金具で装飾した豪華な屋形を設けた「御座船」が登場した。御座船は、関船といわれ、戦国時代には軍船として活躍したが、天下太平の世となった徳川時代の後半からは豪華船としてお召し船に利用された。


御座船「天地丸」(ござぶねてんちまる)

慶長14年(1609)、江戸幕府は諸大名の水軍力削減のために500石(こく)積以上の大型船の所有を禁止し、西国大名が持っていた強力な軍船安宅船(あたけぶね)のすべてを没収しました。
そこで、諸大名は安宅船に代わる関船(せきぶね)を制限いっぱいまでの大きさで建造し、船によってはこれを鮮やかな漆塗(うるしぬ)りで仕上げ、さまざまな金具で装飾した豪華な屋形を設けて御座船とし、参勤交代(さんきんこうたい)などに用いて大名の権威を誇示しました。
中でも、「天地丸」は寛永7年(1630)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船に至る幕末までの実に230年以上の間、将軍の御座船の地位にありました。大きさは500石積、76挺立(ちょうだ)で、船体、総矢倉(そうやぐら)、屋形(やかた)などの全てが朱の漆塗り、随所に金銅(こんどう)の金具をつけて豪華な装飾が施され、将軍の御座船にふさわしい華麗な外観をしていました。
こうして、御座船は泰平の世の中で次第に軍船的要素を失ってゆき、ベリー艦隊の来航などで訪れた幕末の海防の危機に際しては、もはやまったく用をなさない存在となってしまいました。そして文久2年(1862)、幕府が「天地丸」以下の関船、小早などを廃船としたのを契期に、関船の永い歴史に終止符が打たれました。

p0673023 天地丸
天地丸(1987.7.24 船の科学館)

御召「安宅丸」(おめしあたけまる)

寛永9年(1632)将軍家光が、幕府船手頭の向井将監に命じて建造させた。

幕府 関船

光影丸
鳳凰丸
八幡丸
国市丸
の写真が残っている。

「将軍乗船図」には、
御召小早三拾挺立「小麒麟丸」
御鳥船二挺立 2隻
引御船無屋形二拾挺立 4隻(天地丸を曳航)
御召御関船七拾六挺立「天地丸」
右伝馬船拾二挺立
御供小早三拾挺立「橘丸」
御供小早三拾二挺立「住吉丸」
の船団が描かれている。

p0673023 天地丸
天地丸(1987.7.24 船の科学館)
p0673022 麒麟丸
麒麟丸(1987.7.24 船の科学館)
p0673021 小早
小早(1987.7.24 船の科学館)

参勤交代 (さんきんこうたい)の御座船

「 大名(だいみょう) 小名(しょうみょう)、 在(ざい)江戸の交替相定むる所なり。毎 歳(とし)夏四月中に参勤すべし。従者の員数、 近来甚(ちかごろはなは)だ多し。 且(かつ)は国郡の 費(ついえ)、且は人民の労なり。 向後(こうご)其の 相応(そうおう)を似て之を減少すべし」(『徳川禁令考』)。これは寛永12年(1635)6月21日に、3代将軍家光が発布した全文19か条からなる「武家諸 法度(はっと)」のうち、参勤交代を制度化した第2条である。4〜6月は旧暦の夏であり、「夏四月中」とは太陽暦ではおよそ5月で、入梅以前に参勤すべきことを命じているのである。寛永19年(1642)になると譜代大名の参勤交代の時期が2月、関東 東海の譜代大名は9月と決められ、外様大名と参勤の時期がずらされた。
「御在所交替」方式による参勤交代
幕府の大名配置の方針は、江戸周辺には譜代大名を配し、水戸 尾張 紀伊の要地に御三家を、また東海から大坂周辺にも譜代大名を配すること、外様大名は遠隔地に配置し、親 疎 譜代を相接して配置することで相互に監視させることだった。二豊をみると中津 杵築 府内の3藩が譜代大名、日出 臼杵 佐伯 岡 森の5藩が外様大名だった。このため 杵築藩主 能見(の(う)み)松平氏 と 府内藩主 大給(おぎゅう)松平氏 の両譜代大名が交互に在国し、外様大名を監視する任務を帯びていた。また外様大名の 岡藩主 中川氏 と 臼杵藩主 稲葉氏 は交替で参勤し、同時参勤、同時在国はさけるように定められていた。このような参勤方法を「御在所交替」方式と称した。なお豊前の 中津藩主 奥平氏 は 小倉藩主 小笠原氏 と、譜代大名同士が交代して参勤することになっていた。二豊の大名の参勤年を見ると、子 寅 辰 午 申 戌年の参勤大名は中津奥平氏、杵築松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯 毛利氏 の4大名、丑 卯 巳 未 酉 亥年の参勤大名は府内松平氏、 日出(ひじ) 木下氏 、岡中川氏、森 久留島氏 の4大名だった。
参勤コースと参勤交代の経費
元禄15年(1702)、岡と臼杵両藩は幕府の命により「豊後国諸道程の調査」を行った。その控として 岡藩 には「豊後国城下居城より道程之覚」が、臼杵藩には「豊後国道程之書付」がみられる。九州 四国の大名は参勤にあたって、紀伊半島を廻って海路で船を江戸湾に乗り込むことは禁じられていた。このため九州方面からの参勤は海路をとる場合は大坂以西の港を利用して上陸し、その後は陸路で江戸に向かうことになっていた。豊後七藩のうち海路と陸路(中国路)を利用したのは岡藩中川氏だけで、他は海路を利用した。中津藩奥平氏は中国路が近かったためか、陸路を利用することが多かったようである。中川氏が幕府に差出した「道程之覚」には「岡より豊前国 内里(だいり)(大里)まで陸路三十八里余、但、是より長門国下関ぇ相渡り中国海道往還仕候」と記している。そして大坂−江戸のコースについては「東海道 中仙道 美濃路、右三筋は中川因幡守、稲葉能登守、木下右衛門大夫、毛利周防往還仕候、東海道 美濃路、右二筋は松平日向守往還仕候」と報告している。諸大名は幕府直轄の五街道以外の脇街道を利用する場合は、事前に幕府に申請する必要があったが、岡 中川氏は伊勢路を通ったこともあり、佐伯 毛利氏は上記の他に佐屋路を通ったこともある。二豊八大名の参勤 帰国に要した日数をみると、 中津藩 は31〜38日、 杵築藩 は23〜29日、 日出藩 は22〜42日、 府内藩 は23〜47日、 臼杵藩 は36〜42日、 佐伯藩 は21〜36日、 岡藩 は30〜46日、 森藩 は39〜40日のように所要日数に大きな幅がある。これは特に海路の場合、風待ちや潮待ちをしなければならなかったためで、佐伯藩と臼杵藩は佐賀関上浦港で、日出藩は深江港で滞船することがあった。なお、豊後国内に参勤交代道路を持っていた岡藩と森藩では、前者は岡− 今市(いまいち) − 三佐港 または岡− 犬飼 (川舟)−三佐港、後者は森− 今宿 − 頭成(かしらなり)港 のコースを通っていた。参勤交代に要する経費と江戸藩邸維持費に藩収入の約70%が必要であったと、 蒲生君平(がもうくんぺい)は『 不恤緯(ふじゅつい)』(文化4年=1807)で述べているが、実際の参勤の 供揃(ともぞろ)えと経費はどれくらい必要だったのだろうか。まず供揃えをみると、10万石の中津藩は馬上10騎、足軽80人、 仲間(ちゅうげん)人足140〜150人、5万石以上の岡と臼杵藩が馬上7騎、足軽60人、仲間人足100人、4万石以下の杵築 日出 府内 佐伯 森の5藩は馬上3〜4騎、足軽20人、仲間人足30人だった。そして天保10年(1839)の府内藩の参勤経費が502両、臼杵藩の同年の帰国経費が1,069.2両であった。
参勤船団
鶴崎を瀬戸内への玄関口とした 熊本藩主 細川氏 の、 御座船(ござぶね) 波奈之(なみなし)丸 を中心とした参勤交代 絵馬 が鶴崎 剣(けん)八幡社 と佐賀関 早吸日女(はやすいひめ)神社 に奉納されており、三佐港を入帆する岡藩中川氏の御座船 住吉丸 を中心とした絵馬が、三佐 野坂神社 に奉納されており、ともに参勤交代時の様子を伝えている。

高松藩 御座船

飛龍丸
の絵図が残っている。

熊本藩? 御座船

海御座船「浪奈之丸」なみなしまる
御召替御座船「泰寶丸」たいほうまる
御召五拾挺立
関船「阿蘇丸」
関船「永泰丸」
椿原新造
御召二拾二挺立
拾八挺立
拾四挺立
の絵図が残っている。

宇和島藩伊達 御座船

「押船行列之図」には、
御召小早
御取次小早
小鯨船 2隻(太鵬丸を曳航)
大鯨船 2隻(太鵬丸を曳航)
筑後丸、久嶋丸(太鵬丸を曳航)
太鵬丸
小碇伝馬、水伝馬、大碇伝馬
八挺早船 3隻
栢丸、小*丸
境丸
伝馬
八挺早船
宇和嶋丸
伝馬
の船団が描かれている。

「御巡見使御渡海御船行列」には、
御先船「磯崎丸」
通船 小廻り早船
使船 古中鯨船
御召小早「住吉丸」 新大鯨船
久島丸
飛龍丸
伝馬
の船団が描かれている。

薩摩藩? 御座船

御召「泰平丸」
御召替「住吉丸」
の絵図が残っている。


徳島藩御召鯨船「千山丸」

蜂須賀家が、安政4年(1857)に建造、全長約10m。藩主が御座船に乗り移る時に用いた船。
徳島城博物館蔵。全国で唯一現存の和船である。平成8年6月27日国指定重要文化財指定。


川御座船

将軍や大名が、川で用いる御座船を川御座船といいます。水軍の主力艦をあてる海御座船と違って、川御座船には軍船としての機能はなく、淀川の過書船と同じ系統の川船に、大きくて豪華な屋形を設けて用いられました。大型の川船にしては珍しく帆の設備がなく、船を進めるには櫓(ろ)と棹(さお)を使用しました。幕府や、中国・四国・九州地方の大名が大坂に置いた川御座船は、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)や琉球使節(りゅうきゅうしせつ)の送り迎えにも使われたため、船体・屋形ともにとりわけ豪華に装飾されていました。

幕府、紀伊国丸、土佐丸、中土佐丸、難波丸
今治藩、松平讃岐守
小倉藩、小笠原右近将監
長州藩
雲州御城通屋形船
宇和島藩

p0673001 川御座船
川御座船(1987.7.24 船の科学館)


船の歴史
日本の船/和船
海の歴史
水軍
野島流船軍備之図 解析
朱印船 南蛮貿易
朝鮮通信使
平戸・長崎 阿蘭陀貿易
和船の海運
伊能忠敬測量船団
幕末の黒船
幕末の海軍伝習・操練所
幕末の海軍
幕末の海戦
亀山社中と海援隊


戻る TOPに戻る

新規作成日:2002年2月6日/最終更新日:2002年2月13日