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日清戦争

1894(明治27)年7月〜1895(明治28)年、日本と清との間に行われた朝鮮支配をめぐる戦争。
朝鮮半島で起こった東学党の乱(甲午農民戦争)鎮圧のために韓国政府の依頼で清が出兵したのに対し、日本も居留民保護などを名目に出兵。その後日本は朝鮮内政共同改革を清国に提議して拒否される。
他方、イギリスとの条約改正に成功して同国の援助を期待し得る状態となる。
1894(明治27)年7月の豊島沖の海戦が生起。同年8月1日宣戦布告。
火力に勝る日本軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領し、北京・天津を脅かした。
海軍も9月、黄海海戦に勝利して制海権を握り、翌1895(明治28)年1月の威海衛攻撃で北洋艦隊を全滅させた。
1895(明治28)年下関・春帆楼での下関講和会議の結果、4月17日講和条約(下関条約)を締結。日本は領土と賠償金を得る。
「眠れる獅子」とおそれられた清帝国の弱体ぶりを世界中に示す結果となった



豊島沖の海戦

豊島沖の海戦(ほうとうおきのかいせん )
1894(明治27)年7月25日、日清両国の艦隊が朝鮮牙山湾外の豊島沖で交戦、日清戦争の発端となった海戦

[日本海軍 聯合艦隊]
[清国海軍 北洋艦隊]
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青:日本連合艦隊 赤:清国北洋水師



高陞号事件

1894(明治27)年7月25日、日清戦争の豊島沖の海戦の際、清国兵をのせてイギリス国旗を掲揚していた輸送船「高陞号」を日本の巡洋艦「浪速」(東郷平八郎艦長)が撃沈した事件。
イギリスの世論が一時激昂したが適法と認められ、日本海軍の行動は高く評価された。



黄海海戦

1894(明治27)年9月17日
日清戦争中、日本の聯合艦隊(指揮官、聯合艦隊司令長官・伊東祐亨中将、旗艦「松島」)が黄海で清国北洋艦隊(指揮官、北洋水師提督・丁汝昌 旗艦「定遠」)を破った海戦。
大孤山沖海戦 鴨緑江海戦。

[日本海軍 聯合艦隊]
[清国海軍 北洋艦隊]
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青:日本連合艦隊 赤:清国北洋水師



威海衛夜襲

1895(明治28)年2月
2月5日午前3時20分に威海衛港内に侵入した日本海軍水雷艇部隊は、清国の「定遠」を大破、「来遠」「威遠」等3隻を撃沈した。
2月9日には「靖遠」を撃沈、「定遠」は自沈した。
2月12日に、丁汝昌提督は将兵の助命を日本側に懇願して自決。伊東司令長官は、鹵獲艦船の中から商船「康済」号を外し、丁汝昌提督の亡骸を最大の礼遇を以て扱い、丁汝昌提督の最期の希望を聞き届け、清国兵を助命したが、このことは、通常例を見ない厚遇であった。
このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督らとともに、各国海軍の教本に掲載されていると云う。

Pict_1281.
青:日本連合艦隊 赤:清国北洋水師



丁 汝昌

生年未詳
1895(明治28)年2月12日没
安徽省廬江県出身
清国の軍人
淮軍に参加し捻党の平定に活躍




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20世紀初頭の艦載兵器
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新規作成日:2002年2月24日/最終更新日:2009年1月31日