東郷 平八郎
日本海軍軍人
元帥海軍大将
従一位 大勲位功一級 侯爵
父、薩摩藩士・東郷吉左衛門
母、東郷益子
四男
初名、仲五郎
14歳の時元服 平八郎実良と改名
1848年1月27日(弘化4年12月22日)薩摩国鹿児島郡加治屋町(現、鹿児島市)出身。少年の時、薩英戦争に参加。以来、戊辰戦争では薩摩藩軍艦「春日」に乗り組んで阿波沖海戦、宮古湾海戦、函館湾海戦に参加。五稜郭への艦砲射撃も行った。
維新後、英国に7年間留学し近代海軍の姿を体験した。
日清戦争では、巡洋艦「浪速」艦長として豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛攻撃などに参加。特に豊島沖海戦における「高升号」撃沈事件は東郷の名を世界的に有名にした。
日露関係が風雲をはらみ、開戦が必至の状況になった時、海軍大臣・山本権兵衛は幼なじみの日高常備艦隊司令長官(戦時は連合艦隊司令長官となる役職)を更迭し東郷に替えた。交代の真相は証拠がないので諸説あるが、東郷が実戦経験の豊富な指揮官であったこと、以前出した対ロシア作戦のレポートが優秀であったこと、国際法などに精通し勉強熱心であったこと、日高に比べて大本営の指揮下として行動してくれると言う信頼があったことなどが挙げられている。
しかし、連合艦隊司令長官交代を明治天皇に推挙した際、山本海軍大臣は「東郷は運の強い男です。」と答えた逸話もある。
戦いでは、この運の強さが縦横に発揮されマカロフ提督の爆死や、黄海海戦の運命の一弾による旅順艦隊司令部壊滅、バルチック艦隊の陣形混乱など「運」に恵まれた一面を遺憾なく発揮した。
後年、幕僚が談笑の中で日本海海戦の勝因を「7分は運であった」「では残り3分は?」「やはり運だった。但し、7分の運は努力の結果引き寄せた運で、3分の運は天佑としか言いようがない」と語った。
戦後、軍令部部長などを歴任するが神様扱いがエスカレートし、さすがの東郷も頑迷固陋となったと言う。昭和9(1934)年5月30日没。87歳。
巡洋艦 浪速
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略歴
- 1863(文久3)年 薩英戦争
- 薩摩藩海軍所
- 戊辰戦争では同藩海軍の三等士官として参加
- 薩摩藩軍艦「春日」乗組
- 1868年1月28日(慶應4年1月4日) 阿波沖海戦
- 1869年5月6日(明治2年3月25日) 宮古湾海戦
- 「春日」の艦尾機関砲で襲撃してきた幕府脱走軍に応戦
- 1871年1月31日(明治3年12月11日) 「龍驤」見習士官
- 1871年5月1日(明治4年3月12日) イギリスに留学(海軍修行) 操船術などを学ぶ
- 1878(明治11)年1月31日 「比叡」乗組
- 5月23日 帰国
- 7月3日 海軍中尉
- 8月16日 「扶桑」乗組
- 10月3日 海江田てつ子(東郷テツ)と結婚
- 12月17日 海軍大尉
- 1879(明治12)年9月5日 「比叡」乗組
- 12月27日 海軍少佐
- 1880(明治13)年1月5日 「迅鯨」乗組
- 1881(明治14)年12月27日 「天城」乗組
- 1883(明治16)年3月12日 軍艦「第二丁卯」艦長
- 1883(明治16)年 佐世保を調査 西海鎮守府設置場所に決定
- 「天城」副長
- 1884(明治17)年5月15日 「天城」艦長
- 1885(明治18)年6月20日 海軍中佐
- 6月22日 主船局勤務
- 1886(明治19)年5月10日 「大和」艦長
- 7月13日 海軍大佐
- 11月22日 軍艦「浅間」艦長兼横須賀鎮守府兵器部長
- 1887(明治20)年2月2日 免兼
- 1889(明治22)年7月1日 「比叡」艦長
- 7月2日 「浅間」艦長
- 1890(明治23)年5月13日 呉鎮守府参謀長
- 1891(明治24)年12月14日 巡洋艦「浪速」艦長
- 1893(明治26)年2月23日 「浪速」、ホノルルに入港
- 約3カ月ハワイにとどまり、帰国
- 1894(明治27)年1月 再度ホノルル入り ハワイ臨時政権から建国一周年を祝う21発の礼砲を要請されるが、これを拒否、ホノルル港内の各国軍艦もこれにならう
- 1894(明治27)年4月23日 呉海兵団長
- 6月8日 巡洋艦「浪速」艦長
- 1894(明治27)年7月〜1895(明治28)年 日清戦争
- 1894(明治27)年7月25日 豊島沖の海戦(高陞号事件)
- 1895(明治28)年2月16日 海軍少将
- 11月16日 将官会議議員
- 1896(明治29)年3月23日 海軍大学校長兼将官会議議員
- 11月5日 将官会議議員
- 1898(明治31)年2月1日 海軍大学校長兼将官会議議員
- 5月14日 海軍中将
- 1899(明治32)年1月19日 佐世保鎮守府司令長官
- 1900(明治33)年5月20日 常備艦隊司令長官
- 1901(明治34)年10月1日 舞鶴鎮守府初代司令長官
ビーフシチューを日本風にアレンジした「甘煮」(肉ジャガ)を考案
- 1903(明治36)年10月19日 常備艦隊司令長官
- 12月28日 第一艦隊司令長官兼聯合艦隊司令長官
- 1904(明治37)年2月〜1905(明治38)年 日露戦争
- 皇太子殿下(大正天皇)より長剣「備前一文字吉房」を拝領 (現在、東郷会館で保存中) 当時、カール・ツァイス社製の双眼鏡を愛用
- 1904(明治37)年6月6日 海軍大将
- 8月10日 黄海海戦
- 1905(明治38)年5月27日〜28日 日本海海戦
- 1905(明治38)年6月14日〜12月20日 聯合艦隊司令長官
- 1905(明治38)年 日露戦争凱旋園遊会でチェスター・ニミッツ・アメリカ海軍少尉候補生らと歓談
- 1905(明治38)年12月20日 軍令部長兼将官会議議員
- 1906(明治39)年4月1日 功一級金鵄勲章
- 1908(明治41)年 アメリカ親善艦隊来日 ウィリアム・F・ハルゼー少尉らアメリカ海軍士官に戦艦「三笠」艦上で胴上げされる
- 1909(明治42)年12月1日 軍事参議官
- 1913(大正2)年4月21日 元帥
- 1914(大正3)年 東宮御学問所総裁 皇太子(昭和天皇)の教育にあたる
- 1920(大正9)年2月27日 議定官
- 1923(大正12)年3月16日 空母「鳳翔」で行われた一○式艦上戦闘機(吉良俊一大尉操縦)の発着艦テストを視察
- 1926(大正15)年11月11日 大勲位菊花章頸飾
- 11月12日 記念艦「三笠」保存記念式に出席
- 1930(昭和5)年 ロンドン軍縮会議 軍縮反対を主張
- 1934(昭和9)年 侯爵
- 5月30日0700 死去 享年87
- 6月5日 出棺 棺には愛用の植木バサミが収められる
- 国葬 葬儀委員長・有馬良橘 司祭長・加藤寛治
- 多磨霊園(7区特種1側1番)に埋葬
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⇒ 日露戦争でロシア海軍は本当に弱かったのか
新規作成日:2002年2月24日/最終更新日:2002年2月25日