広瀬 中佐
広瀬武夫は明治元年に生まれた。大分県出身。
飛騨高山の小学校を卒業後、小学校の教師をしていたが退職して上京。
明治22年海軍兵学校を卒業。日清戦争では「扶桑」乗り込みとして参戦。
明治30年、ロシア留学が命じられた。2年後には駐在員となり、ロシア人の貴族社会で交際を広げた。日本のサムライである広瀬は多くのロシア人から慕われ、恋人もできた。
明治35年、シベリアを通り旅順港を視察して帰国、「朝日」の水雷長の任についた。部下に杉野孫七二等兵曹がいた。
明治37年日本はロシアに宣戦布告。
広瀬は旅順口閉塞作戦の突入に先立ち、ペテルブルグの恋人アリアズナと、旅順港内の戦艦「ツザレウィッチ」のヴィルキッキー少尉に手紙を書いている。(彼は広瀬を日本語で「タケニイサン」と呼び慕っていた)
手紙は中立国を経由してロシアと旅順に届けられた。
2月22日 第一回の閉塞作戦で港口に達したのは2隻のみで港口は塞げなかった。
第二回閉塞作戦にも第一回と同様、2000人を超える志願があり血判を押したり、血書を書く者もいた。杉野も熱心に懇願し広瀬は彼を加えた。
下士官の参加は一度だけという決まりだったが、士官にはそれはなかった。
二回目は敵に意図するところを知られているので、一層困難で危険である。3月27日夜半、4隻の閉塞船は全速で突入した。旅順口の探照灯が海上を照らし要塞砲が一斉に砲撃を開始、港内から駆逐艦が発砲しながら向かってきた。閉塞船は老朽の非武装の汽船である、しかも石材を満載して沈みやすくしてある。
広瀬の指揮する福井丸は港口に到着、総員後部甲板に集合を命じた直後、魚雷を受けた。探照灯に照らし出された福井丸には要塞砲と駆逐艦の速射砲が集中、全員ボートに移り退艦しようとした。そこで杉野がいないことに気が付いた。杉野は爆破装置操作のため艦首に向かったきりだった。広瀬は「杉野!杉野!」と叫びながら捜し回り、敵弾の砲煙の中、ボートと船内を三度も往復した。
いよいよ福井丸が沈む段になり、脱出を決心、ボートを漕ぎださせると自ら爆破スイッチを入れた。上げ潮のため脱出のボートはなかなか進まず、探照灯に捕捉されたままだった。敵の哨艇が速射砲でボートを砲撃、銅貨大の肉片と血だらけの海図を残して広瀬の姿は消えていた。
福井丸の要員18名のうち広瀬を含む3人が戦死、杉野は行方不明、4人が負傷した。他の閉塞船では負傷者6人のみだった。広瀬は戦死後、海軍中佐に昇進。杉野は海軍兵曹長に昇進した。
広瀬の胆力と部下との心のつながりは広く世に広まり軍神となった。戦死の報はロシアにも伝えられ、広瀬の家族に届いたアリアズナの手紙が残っている。
第二回閉塞作戦は4隻全てを港口に沈没させたが、完全閉塞には至らなかった。第三回閉塞作戦は汽船12隻による大がかりな作戦となったが、74人が戦死もしくは行方不明となり、結局港口を完全に塞ぐことはできず、陸軍の旅順攻略に期待することとなった。
広瀬武夫は将来を嘱望された優秀な軍人であった。文才も秀でており、多くの書簡を残している。彼は最初の軍神となったが、2番目は遼陽で戦死した橘中佐であった。
広瀬神社
豊後竹田駅 徒歩15分
軍神と謳われた広瀬中佐を祠っている。
戦前は軍神とされた広瀬武夫海軍中佐を祭神としていましたが、戦後は竹田市およびその近郷出身戦没者を合祀するようになっています。
境内には、プレハブ二階建ての記念館が建てられています。その一階には、軍艦「朝日」のカッターが置かれています。二階は、広瀬中佐の遺品などが収められています。合祀されている戦没者の遺品なども展示されていますが、ほとんどが中佐のものです。
広瀬神社大祭
5月27日
日露戦争のとき、旅順口閉塞戦で部下の杉野兵曹長を探し求め、壮烈な戦死をとげた広瀬中佐を祀り、この日に大祭を行っている。
「広瀬中佐」
作詞不詳・岡野貞一作曲?/文部省唱歌
轟く砲音(つつおと) 飛来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処(いずこ) 杉野は居ずや」
船内隈(くま)なく 尋ぬる三度(みたび)
呼べど答えず さがせど見えず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよ あたりに繁(しげ)し
今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸(たま)に 忽(たちま)ち失せて
旅順港外 恨みぞ深き
軍神広瀬と その名残れど
⇒ 日露戦争
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新規作成日:2002年2月24日/最終更新日:2002年2月25日