日露戦争の日本陸軍指揮官

明石元二郎

元治元年(1864)年福岡藩2千石取り、上士明石助九郎の次男として生まれた。陸軍士官学校を卒業後、外国駐在や参謀本部勤務が多く部隊指揮の経験は少なかった。語学と算術に長けていたが、服装には無頓着で整理整頓の文字は辞書に無かったらしい。物事への集中力は物凄く、話に熱中すると小便すら垂れ流して話を続けたとの逸話もある。児玉源太郎に見出され、日露戦争ではロシアを後方から撹乱すべく反ロシア帝国活動の煽動を命じた。工作費100万円(今の価値では400億円以上)をヨーロッパ全土の反帝政組織にばら撒き日本陸軍最大の謀略戦を行った。情報の収集やストライキ、サポタージュ、武力蜂起などロシア国内は明石の工作が進むにつれて不穏となり、厭戦気分が増大した。明治37年7月には反ロシア革命組織を集めて「パリ会議」開催にこぎつけ、革命の気運をさらに煽り立てた。戦後は憲兵司令官、参謀次長を歴任し台湾総督となったが大正8年脳溢血で倒れた。

秋山好古

安政3年(1859)、伊予・松山藩出身。「智謀湧くがごとし」と言われた海軍・連合艦隊参謀秋山真之の実兄。初め家計のため小学校教師(17歳!)となったが、明治10年陸軍士官学校に入学。当時少なかった 騎兵を専門とし、明治16年陸軍大学校の第一期生として入学し、明治20年フランス等に留学。日本陸軍の騎兵の基礎を築いた。日露戦争では、愛用のブランデーをあおりつつ奮戦。ロシアの猛将グリッペンベルグ大将の黒溝台を中心とする冬期の大攻勢を未然に察知、満州軍総司令部がもたつく間孤軍奮闘し良くロシア軍の猛攻を支えた。奉天の会戦では最左翼の第3軍の先鋒として奉天を大迂回してロシア軍の後方を脅かした。戦後は騎兵総監、近衛師団長、朝鮮軍司令官を歴任し、大正13年故郷松山の私立北予中学校(旧制)の校長に就任した。陸軍大将が地方の中学の校長になることは当時異例中の異例であった。昭和5年、左足の壊疽に罹病し「奉天の右翼へ…」を最後に71歳の生涯を閉じた。

伊地知幸介

薩摩藩出身。明治4年に親兵となり同8年陸軍士官学校に入校、少尉任官後すぐ3年間フランスに留学し砲術を学んだ。帰国後すぐ大山巌陸軍卿(当時)のヨーロッパ訪問に随行しさらにドイツに留学した。外国生活が長く部隊指揮官としての経験は乏しかったが、洋行帰りであり薩摩閥であったため藩閥バランスを取るために第3軍の参謀長になった。近代要塞に対する知識も近代戦に関する戦術も無い彼は乃木司令官を補佐しきれず頑迷な作戦指導により旅順攻撃における大苦戦を招いた。旅順陥落後は要塞司令官に左遷されたが、藩閥によってか戦後は男爵となり中将で退役した。

梅沢道治

嘉永6年仙台藩士の子として生まれた。戊辰戦争では幕府側として参戦し、明治2年釈放後陸軍に入った。日露戦争では初め近衛第4連隊長として出征。現地で少将に進級し、負傷後送となった近衛後備歩兵旅団長に替わって指揮を取ることになり、近衛後備混成旅団となった部隊の指揮を取った。この旅団は兵役を終えた者を再度招集した後備兵が中心で武器も旧式であったが、沙河の会戦では数倍のロシア軍の攻撃を撥ね返すなど梅沢少将の卓越した作戦指導で「花の梅沢旅団」と呼ばれた。持病のリューマチが出たときは、寝ると立てなくなると言ってイスに座ったまま不眠不休で指揮をとった。大正8年72歳で死去した。

大島久直

秋田県出身で幕末江戸に出て維新後陸軍に入り明治10年の西南戦争では陸軍卿参謀副長として従軍した。乃木第3軍の中核師団、第9師団を指揮し勇敢な指揮官として知られたが、部下からは「髭さん」と親しまれた。奉天の会戦では第3軍の旋回軸として勇戦した。

大山 巌

天保13年(1842)薩摩藩士大山彦八の次男に生まれた。西郷隆盛に幼い頃から兄事し維新の激動期に奔走した。幼時は槍術に長けていたが、大砲を学び戊辰戦争後「弥助(巌の幼名)砲」と呼ばれる国産改造砲の開発するなどした。陸軍では薩摩閥の大物として要職を歴任したが、胆力に富んだ大山は部下の能力を引き出すのが上手かった。日露戦争では、初め参謀総長として戦争準備を行い開戦後は満州軍総司令官として前線の指揮をとった。 渾名は「ガマ坊」と呼ばれ、茫洋とした風貌から児玉源太郎がつけたと言われている。総司令官親補にあたって明治天皇が「山県有朋との声もあったが、お前の方がのんびりしていて良いのだそうだ。」「するとお上、大山はぼんやりしているから良い。と言う風に聞こえますが。」と大山が笑いながら言うと、「まあ、そんなところだ。」と明治天皇は声をあげて笑われたそうである。しかし、出征にあたって「作戦は児玉をはじめ勇猛な指揮官がいるから大丈夫。しかし、負け戦の時は私が指揮をとります。」と言い、大軍を統率する理想とされた。大陸進出後は作戦を児玉総参謀長以下の幕僚にまかせ、縦横に腕をふるわせた。奉天会戦の後、児玉大将を直ちに内地に送り講和の機会をはかるなど政治的視野も広い人物であった。

小川又次

小倉藩出身。明治5年に少尉になり明治18年メッケルがドイツから招かれ陸軍大学校が創設された時、児玉源太郎とともに聴講者として講義を聞いた。メッケルから「児玉、小川が優秀」と言われ、「今謙信」と言われた。日露戦争では第4師団を率い、南山の攻撃では敵左翼への集中攻撃を進言し攻略の糸口を作った。

奥 保鞏

弘化3年(1846)小倉に生まれた。西南戦争では熊本鎮台歩兵第14連隊長心得で参戦、薩摩攻囲軍を突破し背後の官軍との連絡に成功するなど活躍。日清戦争では野津中将の後任として第5師団長になり、牛荘台の戦いで奮戦し有名となった。第1師団長、近衛師団長を歴任後日露戦争では第2軍司令官として大連に上陸し、激戦の後南山を攻略。得利寺、熊岳城、大石橋、海城とロシア軍を撃破し第1軍と合流。遼陽の会戦、黒溝台の戦いに参加し奉天の会戦ではロシア軍の正面を猛攻した。彼は耳が不自由で、作戦指示は筆談であったと言われる。戦後、天皇陛下より下賜された一時金を全て部下に分け与え、故郷小倉に凱旋した時「万歳」で迎える小学生の列に「すまん」と瞑目したと言うエピソードが伝わっている。一介の武人として生涯を全うし、政治的地位はおろか政治的発言もしなかったと言われる。

桂 太郎

弘化4年(1847)萩藩馬廻り役の家に生まれた。時の陸軍卿山県有朋に重用され、以後累進し明治18年少将、同23年中将、日清戦争に第3師団長として出征し明治31年大将となり陸軍大臣を歴任。日露の風雲急を告げる34年に内閣総理大臣となり日英同盟を締結、巧みな政治手腕で難局を乗り切り海軍の拡張など挙国一致の体制を作り上げた。一時の戦勝に惑うことなくポーツマス条約を成立させ戦争を集結させ総辞職。その後2回首相となり、公爵となった。大正2年2月死去した。

閑院宮載仁親王

明治14年陸軍幼年学校を卒業後フランスで士官教育と騎兵教育を学び参謀学校を卒業した。沙河の会戦では騎兵第2旅団を指揮して日本軍の右翼に殺到したロシア軍の大軍を機関銃で痛打し潰走させた。機関銃を馬載して運搬し三脚架を使用して安定した射撃姿勢を取れるように改造するなど創意工夫にも富んでいた。晩年は参謀総長などを歴任した。

川村景明

薩摩藩出身。薩英戦争に初陣し、以来鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争と明治動乱期のあらゆる戦争を経験していた。日露戦争当初は第10師団長として出征していたが、大将に昇進し新設の鴨緑江軍司令官となった。この軍は政治的色合いの強い軍で韓国駐留軍の指揮下にあったが、川村はさっさと満州軍との協力を表明して奉天の会戦では最右翼から奉天に迫った。川村は激戦の中でも最前線に出かけて行き、将兵に接したため兵達は村長さんの様に親しんだと言われる。

木越安綱

安政元年(1854)石川県に生まれた。日清戦争では桂第3師団長の参謀長として信頼を得て、日露戦争では第23旅団を率いて仁川に上陸し先遣部隊として勇名を馳せた。その後第5師団長として黒溝台の戦い、奉天の会戦に参加。戦後は陸軍大臣となったが軍部大臣現役制の改正を時の山本権兵衛首相と企画したが陸軍の反発を受け辞職。大正5年予備役となり昭和7年死去した。

黒木為

弘化元年(1844)薩摩藩に生まれた。黒木家の養子となり、薩摩軍の一員となり西郷兄弟、大山巌などに兄事した。明治26年陸軍中将となり第6師団長として日清戦争に参戦し、威海衛上陸作戦を敢行し要塞を奪取した。 日露戦争では第1軍司令官として3個師団を率いて勇戦し、常に対ロシア戦線の中央を戦い抜いた。黒木は常に陣頭に立って勇壮に軍を指揮し、将兵からの信頼は絶大であったと言われる。弓張嶺の戦いでは戦線の膠着と弾薬の不足に少しもたじろがず、全師団による夜襲を敢行して天険の要塞に篭るロシア軍を駆逐するなど大胆な用兵も行う戦術家であった。戦後明治40年、伯爵となり大正12年没した。

児玉源太郎

嘉永5年、毛利家の支藩徳山藩士の子として生まれた。明治2年17歳で二条川第1教導隊に入隊、以後累進し明治5年には少佐に進級した。明治9年の神風連の乱で敵を迎撃たちまち敗走させ、西南戦争では熊本鎮台参謀として篭城戦を指揮し薩摩軍を撃破した。 鎮台制から師団制の移行など陸軍の近代化にも尽力し、戦略戦術の講師としてドイツ(プロシア)から招聘したメッケル少佐も児玉の才覚を絶賛していた。日清戦争時は陸軍次官として戦争遂行の指揮を取り、明治36年には内務大臣となり台湾総督や文部大臣を兼任した。 日露風雲急を告げる中、田村参謀本部次長の急死の後を受け下位役職の参謀本部次長に就任しロシア戦に精根をかたむけた。百戦錬磨の豪傑ぞろいの軍司令官を参謀のネットワークと戦略指導で満州出征軍を手足の如く動かして、数に優るロシア軍を終始圧迫した。また、戦勝に奢ることなく攻撃終末点を把握し奉天の会戦の後は軍の将校・兵・弾薬の不足を明治政府に伝え講和を進言した。 勝ち進む軍を深入りせず止める事は昭和の戦争を見ても分かるとおり容易ではなく、大山・児玉の見識の高さを示している。 日露戦争直後の明治39年、精根尽き果てたごとく54歳の若さで急死した。児玉の死は、台湾・朝鮮などの植民地経営に影を落し、陸軍は変質していった。児玉が生きていたならば軍政家、行政家として卓越した手腕で昭和の軍隊の変質を防げたかもしれないと言われている。

立見尚文

桑名藩出身で、幕末は洋式歩兵隊長として幕府瓦解後も各地を転戦し、北越戦争では長岡藩と協力し薩長軍をしばしば打ち破った。倒幕側に立っていた維新政府の高官も、立見の武功には頭が上がらぬ者もいたようである。日露戦争では最古参の中将として東北の精鋭第8師団を率いて戦った。黒溝台の戦いでは、日本軍左翼に進出したロシア軍の兵力を過小評価した司令部によって応援に廻った第8師団は逆に包囲される危険に陥り大苦戦した。この時、「奥州の健児たる者、他師団が5,6度の会戦で受けた損害を1度で負うべし!」と訓令壇にしていた長持ちを踏み抜いたのは有名である。但し、将兵からの信頼は厚く軍神のごとく慕われたと言う。明治40年、日露戦争の辛労から病を得て死去した。

田村怡与造

安政元年、山梨に生まれる。陸軍士官学校士官生徒第二期生で、明治16年からドイツに留学しドイツ陸軍大学で戦略戦術を学んだ。作戦用兵の達人と言われた川上操六大将に評価され参謀畑を進み、ロシアとの風雲告げる中倒れた川上参謀総長に替わって対露作戦の準備を行った。田村は参謀本部内の派閥人事を一掃し有能な人材を集め、陸軍7個師団の増強や軍事物資の集積、対露情報網の整備など辣腕をふるい「今信玄」と呼ばれたが心労がたたったためか日露戦争の4ヶ月前に心臓疾患で急死した。田村の後をうけて参謀本部次長となったのが児玉源太郎大将であるが、基本戦略は田村の立案したものであったと言われる。

長岡外史

長州藩出身。児玉大将が満州軍総司令部総参謀長として出征するに当たり参謀本部次長として後任となった。参謀総長が長州閥の領袖山県有朋であったため長州出身として調整力を期待されたと言われる。長大な髭をたくわえた思い付屋のところがあったが、28センチ要塞砲を旅順攻略に送るなど発想が有効な場合もあった。

野津道貫

天保12年(1941)11月、鹿児島藩の軽輩野津七郎の子として生れ、幼名は七次。家は貧しかったが文武に優れ21歳で上京、洋式兵学を学び明治元年の戊辰戦争で初陣し西南戦争では第2旅団参謀として出征。日清戦争では第5師団長として平壌を攻略、その統率用兵の力を買われ、作戦能力に疑問のある山県有朋に替わって第1軍司令官に補職され翌28年大将に任じられた。日露戦争では明治37年6月、第1軍と第2軍の間に空隙が出来るのを避けるため独立第10旅団と後備第10旅団を指揮下に第4軍が編成され野津大将が司令官となった。大孤山に上陸後、析木城を攻略。第5師団を指揮下に加え遼陽に進撃、沙河の会戦、奉天の会戦に参加。終始武人として生涯を貫き明治39年元帥府に列せられ、同40年侯爵となったが翌41年10月死去した。

乃木希典

嘉永2年(1849)11月、山口藩に生まれた。学者を志し吉田松陰の師、玉木文之進の内弟子となったが維新の時節はそれを許さず、松陰の兄弟弟子と言うことで軍歴もないまま明治4年に陸軍少佐に任官し、明治10年には歩兵第14連隊長として西南戦争に参加した。優勢な西郷軍に攻囲された熊本城を救援すべく小倉から急行した14連隊はが西郷軍の攻撃に苦戦し、軍旗を奪われてしまった。このことは乃木の心を深く傷付け後の明治天皇崩御の際の殉死に繋がったと言われる。 日清戦争では清国の誇る旅順要塞を1日で陥落させ面目をほどこし中将となったが、その後は幾度も休職となり那須野ヶ原で農業に従事していた。 日露開戦の後、旅順攻略軍編成の必要に迫られた陸軍は長州閥の司令官をあてるべく乃木を現役復帰として第3軍司令官に任命した。参謀も派閥人事であり、近代要塞の知識も乏しかった陸軍は大苦戦し夥しい死傷者を出し、乃木の2人の息子も戦死した。司令官更迭の案もあったが、明治天皇は乃木の赤心を愛し更迭を許さなかった。満州軍総司令部参謀長・児玉源太郎大将は旅順に飛び作戦を変更し203高地の攻略が行われ要塞を陥落させた。その後乃木の第3軍は北上し奉天の会戦に参加。最左翼を猛進し露軍司令官クロパトキン大将を潰走させた。明治天皇への報告の折り多大な犠牲を払ったことに死をもって償いたいと声涙くだる奏上をしたが、明治天皇は「朕が生きているうちは死ぬことはならぬ」と告げ、学習院院長に任じた。大正元年9月13日、妻とともに殉死した。

福島安正

嘉永5年(1852)長野県に生まれた。勉学のため江戸に出て講武所で洋式兵学を学び、明治11年中尉。明治25年、駐独公使館付武官の任を果たした福島少佐はベルリンからモスクワを経由しゴビ砂漠、シベリアを横断し帰国して有名となった。北清事変では混成1個連隊を指揮して天津を猛攻した。田村参謀本部次長により参謀本部に入り第2部長として対露戦を指揮し、児玉総参謀長を補佐した。関東都督などを歴任し大正8年没した。

藤井茂太

兵庫県出身で、陸軍大学校一期生であった。メッケルの薫陶を受けた一人で作戦立案能力は高く、遼陽の会戦では太子河渡河による側面攻撃を提唱し成功させた。一方、やや頑固なところもあり黒溝台の戦いでは状況掌握が甘く苦戦した。


日露戦争
戦艦 三笠
日露戦争の日本海軍指揮官
東郷 平八郎
広瀬 中佐
日露戦争の日本陸軍指揮官
日露戦争のロシア海軍指揮官
日露戦争のロシア陸軍指揮官
日露戦争でロシア海軍は本当に弱かったのか


戻る TOPに戻る

新規作成日:2002年2月25日/最終更新日:2002年2月25日