日露戦争

歴史的背景

日露戦争は、超大国帝政ロシアの極東侵略に対して、当時、未だ無名の一小国に過ぎなかった日本が国家の総力をあげ死力を尽くして戦いぬき、遂に、島国日本を不敗の態勢に作りあげてロシアの継戦意図を放棄させた戦争であった。
そもそも、帝政ロシアは、16世紀以来シベリアの経営に着手し、1730年頃までにアジア北方地域の占拠を終わって極東からの南下を開始した。そして、1860年にはウスリー以東の沿海州を獲得し、また、1875年には樺太(サハリン)の専有を果たし、沿海州の要地ウラジオストクに海軍の根拠地を築いて極東雄飛の足掛かりを作った。
しかし、この軍港は冬季結氷するので、ロシアは、なおも不凍港を求めての南下を画策していた。たまたま、修好条約を結び得たのを機として、韓国の沿岸に良港を借り受けようと策動したが、ロシアの南下を好まぬイギリスの妨害に遭って不成功に終わった。ところが、1895年(明治28)の日清講和条約で遼東半島が日本に割譲されることとなるや、ロシアは武力を背景にドイツ・フランスとともに条約に干渉を加えて同半島の清国返還を強要し、返還された同半島の要地である旅順及び大連を1898年に租借してしまった。かくして、ロシアは不凍港入手の念願を果たすとともに、先に獲得した東清鉄道敷設権と合わせて、この新軍港をロシア領と直結する強力な根拠地とした。
さて、日清戦争後は、弱体を暴露した清国に対する西欧列強の侵略が露骨化し、ロシアも満州の経営を強力に進めていたのであったが、これら列強の侵略に反発して起った北清事変(1900年)を好機として、ロシアは鉄道警備を名目に大軍を導入して満州の要地を占拠し、事変解決後もなお駐兵を続けて満州の領土化を策するとともに、更に南下して触手を韓国に伸ばし、やがては一衣帯水の日本も同じ運命に陥る危機をはらむ形勢にと発展していった。
この増大するロシアの脅威に対して、日本は、1902年(明治35)大海軍国イギリスと日英同盟を結び、その抑制効果を期待したのであったが、けた外れの軍事力と財力を誇るロシアは、小国日本の抗議あるいは談判に耳もかさず、かえって極東の兵力を増強して日本への圧迫を強化した。たまりかねた日本は、なんとしてでも、大国ロシアの脅威を排除しなければならないと、遂に1904年(明治37)2月6日ロシアとの国交断絶を通告するのやむなきに立ち至った。かくして、2月9日宣戦が布告され日露戦争が始まったのである。


日本海軍の作戦方針

日本海軍は、戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を基幹とするもので、これに未回航の装甲巡洋艦2隻がいずれ増勢される予定であったが、その全勢力は新旧合わせても約26万トンに過ぎないもので、51万トンのロシア海軍に対して約半分の勢力であった。
また、当面の敵であるロシア太平洋艦隊は、約19万トンというやや劣勢なものながら、戦艦7隻・装甲巡洋艦4隻を中軸とする新鋭艦で構成された精鋭で非常な大敵であった。
そこで日本海軍は、奇襲および分散兵力の各個撃破などによりロシア太平洋艦隊の速やかなる撃滅を期し、そのうえで、予期されるロシア本国からの増援艦隊を迎え撃つのを方針とした。


連合艦隊の出動

1904年(明治37)2月6日午前1時、真夜中にもかかわらず、連合艦隊の各級指揮官が佐世保在泊中の旗艦三笠に集められた。東郷司令長官は、長官公室で各級指揮官に勅語の伝達を行った後、日露開戦に伴う所要の命令を授与し作戦の発動を令した。連合艦隊の各隊・艦は、夜明けを待って、勇躍佐世保を発進し征途についた。


1904.2.9 旅順口奇襲

旅順または大連に在泊中と予期されたロシア艦隊主力に対し、2月9日未明、駆逐艦による夜襲が敢行された。
旅順に対しては駆逐艦11隻が向けられ、外港錨泊中のロシア艦隊主力を奇襲したが、襲撃艦相互が連係を失したため、各艦の敢闘にもかかわらず成果は十分とはいい難く、戦艦レトウィザン、ツェザレウイチ及び二等巡洋艦パルラーダに損傷を与えたが撃沈できなかった。また、大連湾に侵入した駆逐艦8隻は会敵できずに帰還した。
この日、正午頃、連合艦隊は戦果拡大のため旅順口外のロシア艦隊に開戦第一撃を加え、海岸砲台の支援下にあるロシア主力と激烈な砲撃戦を展開した。彼我ともに相当の損害を生じたが、これが主力艦のはじめての対戦となった。
なお、ロシア太平洋艦隊司令長官スタルク中将は、旅順が奇襲された責を負わされて、マカロフ中将と交代することとなった。

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1904.2.9 仁川沖海戦

2月8日夕刻、瓜生外吉少将の率いる巡洋艦戦隊は装甲巡洋艦浅間を伴って仁川に到着し、護衛してきた陸軍部隊を夜のうちに仁川に陸揚した。当時、仁川港にはロシア軍艦2隻(ワリヤーグ、コレーツ)が在泊していたが、国際港での戦闘を避けて翌9日正午過ぎに、港外に誘い、絶対の優勢をもって一挙に撃滅して緒戦を飾った。

防護巡洋艦 ワリヤーグ Variag / Вариаг
砲艦 コレーツ Korietz / Кориетз
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1904.2.24-5.2 旅順口閉塞

旅順口閉塞
第1回閉塞
旅順口の閉塞は、連合艦隊参謀の有馬良橘中佐が中心となり米西戦争におけるサンチャゴ港閉塞作戦を参考に計画をたて、開戦前すでに、使用する閉塞船5隻と乗船する士官10名が予定されて実行の機会を待っていた。
開戦初頭の旅順奇襲でロシア艦隊が港内に移動したので、この機会にそのまま閉じ込めて、海上輸送の安全を図ろうと旅順口閉塞が実行されることになった。血書志願のもの多数を含む2000余名の志願者から67名を選抜し、先に予定されていた士官と合わせて、有馬中佐以下77名の決死隊が編成され、1904年(明治37)2月24日未明、天津丸、報国丸、仁川丸、武揚丸、武州丸の5隻が、水雷艇の支援下に旅順口への突入を敢行した。しかし、ロシア側の激しい妨害に遭って侵入は困難を極め、辛うじて広瀬少佐の指揮する報国丸および斉藤大尉の指揮する仁川丸の2隻が港口付近に到達して爆沈を果たしたにとどまった。死傷者4名。

第2回閉塞
第1回閉塞の効果が不十分であったので再度閉塞が計画され、数千の志願者から有馬中佐以下68名の決死隊を編成して、3月27日未明、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の4隻による突入が決行された。このたびは、ロシア側の妨害も一段と激しさを加えたが、前回の経験を生かして、探照灯の幻惑を防ぎながら飛来する多数の砲弾の中を猛進し、全船が港口付近での爆沈を果たすことができた。死傷者、広瀬中佐以下15名。

第3回閉塞
陸軍の塩大墺(遼東半島)上陸を援護するため、ロシア艦隊の動きを抑圧しようと連合艦隊主力を旅順に近い裏長山列島に進出させたが、更に、できれば旅順港内に閉じ込めてしまおうと第3回閉塞が計画された。
このたびは、前2回の経験にかんがみ、小出しをやめて12隻という大集団をもって5月2日夜半から進入を開始した。しかし、荒天のため閉塞隊の行動は困難を極め、遂に作戦中止が発令されたのであるが、命令の伝達が風浪に妨げられて徹底を欠き、8隻の閉塞船が突入した。帰還隊員は半数に満たない壮烈なものとなった。
なお、3回に及ぶ旅順口閉塞の結果、大型艦の港口通過は極めて困難なものとなり、ほぼ目的を達することができた。

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1904.8.10 黄海海戦


1904年(明治37)8月10日午前9時、ウィトゲフト少将の率いる旅順艦隊(戦艦6、巡洋艦4、駆逐艦8)がウラジオストクを目指して旅順を離れた。この日早朝からロシア艦隊出動の気配があり警報を受けていた東郷司令長官は、分在兵力の集中を命令するとともに、直率の戦艦4隻をもって敵航路上への進出を開始した。途中装甲巡洋艦春日及び日進を合同して急行し、午後1時頃、遇岩の西18kmを南東進中のロシア艦隊を望見することができた。
このたびは、過ぐる、6月23日の遭遇戦で敵艦隊を旅順に逸してしまった苦い経験にかんがみ、敵の退路を遮断して一挙に撃滅しようと、遠距離砲戦をもって援射しつつ洋心への誘い出しを試みたのであるが、ロシア艦隊の脱出意図は意外に堅く、日本側の常用する丁字戦法の後尾をすり抜け、一意、全速力をもって南下逸走を開始した。
逃がしては一大事と、日本艦隊は陣容を立て直して追撃したが、旗艦三笠が敵戦列の中央と並び、ロシア側の集中砲火により被害は累進していった。遂に午後3時20分、やむなく射程外に出て並進し懸命に追うこと2時間余り、やっと敵先頭との距離7kmに迫り得て不十分な態勢ながら砲戦を開始した。
しかし、戦勢は一向に好転せず、薄暮が迫り、このままでは暗夜に敵を逸する恐れが濃くなっていった。午後6時半頃、三笠の発射した主砲砲弾が、運命の一弾となって旗艦ツェザレウィチの司令塔付近に破裂して司令長官ら首脳部を倒した。被弾舵故障した同艦は左に急旋回して自己隊列中に突入し、ロシア陣列は四分五裂して混乱に陥った。この機に乗じて、日本主力は包囲攻撃にうつり、追撃してきた諸艦も逐次戦闘に加入して敵に痛打を加えた。大打撃を蒙りながらもロシア艦隊は、水雷部隊の夜襲をかわして主力は旅順に引き返し、戦艦1・巡洋艦3・駆逐艦5が武装解除または座礁により勢力減となった。
黄海海戦における苦戦が日本海海戦の徹底的戦勝につながるもととなった。三笠の被弾は20余発、死傷者125名で日本海海戦における被弾30余発、死傷者113名より死傷者はわずかに多い。また、後部主砲に被弾、伏見宮博恭王殿下が戦傷を負われたのもこの時である。


1904.8.14 蔚山沖海戦

装甲巡洋艦3隻を基幹とするウラジオストク艦隊は、開戦以来、日本近海を縦横無尽に行動し、懸命な日本側の捜索の目を潜って6月中旬には対馬海峡で出征途上の陸軍将兵1000余名が乗船する常陸丸及び佐渡丸を襲って撃沈破し、また7月下旬には首都の玄関口である東京湾外に出現して猛威を振るうなど、神出鬼没の行動によって日本の海上交通に非常な脅威を与えてきた。
連合艦隊は8月10日旅順艦隊を黄海に破って敵主力のウラジオストク脱出を阻止したが、戦場を離脱南下した巡洋艦及び駆逐艦の対馬海峡通過を抑えるため、また策応して出動すると予期されるウラジオストク艦隊にも備えて、第二艦隊司令長官上村彦之丞中将の直率する第二戦隊(出雲・吾妻・常磐・磐手)を13日未明から対馬海峡東方に先行させて要撃配備につけていた。
8月14日午前5時、南航捜索中の第二戦隊は、遂に、前方約10kmに南下する宿敵ロシーヤ、グロモボイ、リューリクの艦影を認め全力をもって追跡を開始した。左折して東進し逸走の機をうかがうロシア艦隊に対し、第二戦隊は、その北航を妨げつつ5時23分距離8400mで殿艦リューリクに対し砲撃を開始し、次いで並行戦による猛撃にうつった。激戦30分にしてリューリクは後落し始め、ロシーヤ及びグロモボイの2艦は、孤立したリューリクを救出しようと反転また反転を繰返しながらリューリクをかばって応戦していたが、両艦の被弾ようやく累増するに及び、遂に8時22分、行動不自由となったリューリクの救出を断念して北走を開始した。
上村司令長官は、7時50分頃から戦場に到着していた軽巡2隻にリューリクをゆだね、第二戦隊をもって北走する2艦の追撃戦に移った。被弾により一時戦列を離れる艦を生じながら追撃すること1時間半、しかもロシアの2艦には減速の徴なく、逆に旗艦出雲の弾薬欠乏の報告に接した上村長官は、遂に10時4分追撃を断念して、リューリクを処分するため反転した。
大被害にもめげず、軽巡と対戦していたリューリクは、接近してくる第二戦隊を望見して脱出をあきらめ自沈して果てた。上村長官の命により、波間に浮かぶリューリクの乗員の救助が実施されたが、この行為は日本武士道の精華であると海外に喧伝された。


旅順の陥落

1904年(明治37)8月10日の黄海開戦ののち戦艦5・巡洋艦1・駆逐艦3が旅順に帰ったが、いずれも大損傷を蒙っており、また14日の蔚山沖海戦を経てウラジオストクに帰着した装甲巡洋艦2も損傷が甚だしかったので、遂にロシア側は、旅順艦隊のウラジオストク回航を断念して、ヨーロッパからの増援艦隊の来着を待つこととなった。
日本側としては、このロシア増援艦隊到着前に、何としてでも旅順艦隊を壊滅しておかなければならなかったので、陸海軍が協力して旅順の攻略、特に旅順艦隊の撃滅を急いだ。乃木大将の率いる第三軍は、鉄壁の旅順要塞との死闘を繰返し、海軍派遣の重砲隊を駆使し、遂に28cm要塞砲まで動員しての半歳に及ぶ悪戦苦闘ののち、12月5日港内を一望に収める203高地の奪取に成功した。その後、戦勢は一挙に好転し、12日までに在泊のロシア主力艦を28cm要塞砲などで撃沈し、次いで翌1905年(明治38)1月2日旅順要塞が陥落し旅順艦隊も壊滅した。


バルチック艦隊の出撃

ロシアは1904年(明治37)4月30日新編艦隊の極東派遣意図を公表し、ロジェストウェンスキー中将を司令長官とする、第2太平洋艦隊を編成して、10月15日リバウ港を発進させた。11月3日モロッコのタンジュールにおいてアフリカ迂回の主隊とスエズ運河経由の支隊に分かれて進出し、翌1905年(明治38)1月9日仏領マダガスカル島のノシベで合流を完了した。
バルチック艦隊とはその発航地であるバルト海にちなみ、日本側がつけた通称である。

太平洋第2艦隊 戦艦7隻,巡洋艦9隻,駆逐艦9隻,計戦闘艦25隻。
運送船14隻,工作船1隻,特務船1隻,合計41隻。
太平洋第3艦隊 戦艦1隻,巡洋艦1隻,海防艦3隻,計戦闘艦5隻。
工作船1隻,運送船3隻,合計9隻。

赤:太平洋第2艦隊、青:太平洋第3艦隊
Pict_1320. Pict_1320a. Pict_1320b.


連合艦隊の迎撃準備

日本側では、旅順方面の作戦一段落に伴い、大本営及び艦隊司令部の合同で、バルチック艦隊を全滅するための作戦が、連日真剣に研究された。
そして、1月21日、内地で整備中の全艦艇に対して、修理完了次第朝鮮海峡の前進基地鎮海湾への終結が発令された。かくして、バルチック艦隊撃滅手段である七段構えの戦法の猛烈な訓練が課せられ、「待つあるをたのむ」の態勢が順次構成されていった。


日本海海戦

明治38年5月27日未明、ロシアのバルチック艦隊が九州の西対馬海峡に現れた。午前9時40分、付近哨戒中の哨戒艦信濃丸からの報告により東郷司令長官は、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第1報を大本営に打電して旗艦三笠を率い鎮海湾から出撃した。
やがて敵艦隊を認めた長官は、旗艦三笠のマスト高く戦闘旗を、ついで1時55分、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ。」のZ旗信号を揚げ、全軍の士気を鼓舞した。
両軍の距離が、8千メートルになった時、長官は右手を大きく左に振り、取り舵一杯を令し、敵艦隊に接近した。時2時5分、これがかの有名な東郷長官の敵前大反転である。敵は好機到来とばかりに砲撃を始めたが、まだ一列の戦闘隊形(単縦陣)が出来上がっていなかったため味方が邪魔になり、思うように射撃が出来ず、また訓練不足と折からの荒波でなかなか命中しなかった。敵艦隊の射撃開始2分後の、2時11分、彼我の距離6500メートルになった時、長官は、初めて「打ち方始め」を命じた。世界の注目を集めた世紀の大決戦は、こうして始まったのである。
両国の艦隊は、共に祖国の命運を担って力の限り奮戦した。両国の主力艦は、大口径砲を持った戦艦が、我が4隻に対して、敵は新式が7隻、旧式4隻とはるかに優勢であったが、我には速力に勝る装甲巡洋艦が在り、その不利を補っていた。
我が艦隊の巧みな戦術と、猛訓練によって鍛えられた砲撃により、敵の損害は甚だしく、戦列を乱して右往左往した。旗艦スワロフは2時50分ついに戦闘力を失い、敵将ロジェストウエンスキー長官も重傷を負って駆逐艦に移乗し、指揮権を次席指揮官のネボガトフ少将に譲った。戦艦オスラビアも3時10分沈没し、戦いが始まって30分経ったころには勝敗が明らかになっていた。その後主力部隊や補助部隊が入り乱れ、数時間に渡る激しい戦闘が続いた。敵は、ボロジノアレキサンドル三世ほか3隻、また相次いで沈没、その他の艦艇も大損害を受け、ウラジオストックに逃げ込もうと必死の努力を続けた。やがて日没が近づき、我が主力部隊は7時28分、後を駆逐艦や水雷艇隊に任せ、翌朝の集合場所である鬱稜島に向かった。後を受け継いだ我が夜戦部隊は、怒涛逆巻く中、夜陰にまぎれて肉薄し、壮絶な魚雷攻撃を真夜中まで敢行した。
明けて5月28日、前日と打って変わって空は晴れ上がり、ネガボトフ少将率いる旗艦ニコライ一世以下5隻の残存部隊もたちまち発見包囲され、遂に白旗を揚げて降伏した。病床の敵将を乗せた駆逐艦ベドウィも我が駆逐艦「さざなみ」の追撃に遭い、白旗を掲げて降伏し、長官以下捕虜になった。
その他の艦隊も次々に撃沈又は拿捕あるいは降伏し、こうして2日間に渡る両国艦隊の決戦は終了した。
戦果を総合すると、38隻の敵主力艦の中、沈没21隻、降伏・拿捕7隻、中立国に逃げ込み武装解除されたもの7隻、残り3隻の小艦艇が目的のウラジオストックに到達したのみであった。
我がほうの損害はわずかに水雷艇3隻のみである。
またこの海戦で、ロシア側は戦死者4545名、捕虜6106名であったが、日本側の戦死者は116名であった。
世界海戦史上、稀なる完全勝利であり、これを契機にアメリカのポーツマスで日露講和会議が実施されることとなった。
日本海海戦は、日露戦争の勝利を導く上で決定的な役割を果たし、日本に平和をもたらしたのである。

日本郵船 信濃丸
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六六艦隊


ロシアが、ドイツおよびフランスを誘って、1895年(明治28)4月の日清講和条約に介入し、遼東半島の清国返還を強要してきた。この不当な干渉に日本人の憤激は極度に達したが、当時の日本海軍は三国の極東艦隊にすら対抗しかねる状況で、残念ながらこの干渉に屈するのほかなく、他日を期しての臥薪嘗胆が始まった。
同年7月、日本は、軍務局長 山本権兵衛少将の案画になる海軍拡張10年計画を発動して、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻(六六艦隊)を基幹とする極東水域での最強艦隊の保有を目指して必死の努力を開始した。
第一戦隊を構成する戦艦は、日清戦争の時建造中であった12000t級の富士、八島に加えて、敷島、朝日、初瀬、三笠が英国に発注され、30cm砲14門を備える15000トン級・18ノットの強力艦として出現した。
戦艦三笠は、その最終艦で、3年の歳月と88万ポンド(当時880万円)の巨費を投じて、1902年(明治35)英国のヴィッカース造船所で竣工した新鋭艦であった。

第二戦隊を構成する装甲巡洋艦は、浅間、常磐、出雲、磐手が英国に、八雲がドイツに、吾妻がフランスにそれぞれ発注され、1901年(明治34)までに完成して20cm砲4門・15cm砲14門を備える9700トン級・20ノットの新鋭艦として出現した。


日本海軍艦艇

連合艦隊
第一艦隊
第一戦隊 連合艦隊旗艦:三笠(1等戦艦) 朝日(1等戦艦) 富士(1等戦艦) 八島(1等戦艦) 敷島(1等戦艦) ×旗艦 初瀬(1等戦艦) 日進(1等巡洋艦) 春日(1等巡洋艦) 龍田(通報艦)
第三戦隊 旗艦 千歳(2等巡洋艦) 高砂(2等巡洋艦) 笠置(2等巡洋艦) ×吉野(2等巡洋艦)
駆逐艦隊
第一駆逐艦隊 司令艦 白雲 朝潮 霞 ×暁
第二駆逐艦隊 司令艦 雷 朧 電 曙
第三駆逐艦隊 司令艦 薄雲 東雲 漣
水雷艇隊
第一艇隊 ×司令艇第69号艇 第67号艇 第68号艇 第70号艇
第十四艇隊 司令艇千島 隼 真鶴 鵲

第二艦隊
第二戦隊 第二艦隊旗艦:出雲(1等巡洋艦) 吾妻(1等巡洋艦) 浅間(1等巡洋艦) 八雲(1等巡洋艦) 常磐(1等巡洋艦) 旗艦 磐手(1等巡洋艦) 千早(通報艦)
第四戦隊 旗艦 浪速(1等巡洋艦) 明石(3等巡洋艦) 高千穂(2等巡洋艦) 新高(3等巡洋艦)
駆逐艦隊
第四駆逐隊 司令艦 速鳥 春雨 村雨 朝霧
第五駆逐隊 司令艦 陽炎 叢雲 夕霧 不知火
水雷艇隊
第九艇隊 司令艇蒼鷹 鴿 雁 燕
第二十艇隊 司令艇第62号艇 第63号艇 第65号艇

付属艦船部隊
第一特務隊 大島(砲艦) ×赤城(砲艦) 春日丸(仮装水雷母艦) 台中丸(仮装巡洋艦)
台南丸(仮装巡洋艦) 三池丸(工作船) 神戸丸(病院船) 山口丸(給水用運送船)
福岡丸(給炭用運送船) ×金州丸(特別用運送船) ×仁州丸 ×武州丸(特別用運送船)
×武陽丸(特別用運送船) ×天津丸(特別用運送船) ×報国丸(特別用運送船)
第ニ特務隊 日光丸(仮装水雷母艦) 香港丸(仮装巡洋艦) 日本丸(仮装巡洋艦)
江都丸(工作船) 太郎丸(給水用運送船) 彦山丸(給炭用運送船)

第三艦隊
第五戦隊 隊旗艦 厳島(2等巡洋艦) 鎮遠(2等戦艦) 橋立(2等巡洋艦) 松島(2等巡洋艦) 宮古(通報艦)
第六戦隊 和泉(3等巡洋艦) 旗艦 須磨(2等巡洋艦) 秋津州(2等巡洋艦) 千代田(2等巡洋艦)
第七戦隊 扶桑(2等戦艦) 平遠(1等砲艦) 済遠(海防艦) 海門(海防艦) 筑紫(1等砲艦) 磐城(2等砲艦) 宇治(2等砲艦) 摩耶(2等砲艦) 鳥海(2等砲艦) 愛宕(2等砲艦)
水雷艇隊
第十艇隊 司令艇第43号艇 第42号艇 第40号艇 第41号艇
第十一艇隊 司令艇第73号艇 第72号艇 第74号艇 第75号艇
第十六艇隊 司令艇白鷹 第71号艇 第39号艇 第66号艇
付属艦船部隊
第三特務隊 豊橋(水雷母艦) 有明丸(給炭用運送船)

×は喪失


歴史


日露戦争
日露戦争 日本海海戦参加艦艇
戦艦 三笠
日露戦争の日本海軍指揮官
東郷 平八郎
広瀬 中佐
日露戦争の日本陸軍指揮官
日露戦争のロシア海軍指揮官
日露戦争のロシア陸軍指揮官
日露戦争でロシア海軍は本当に弱かったのか芸予要塞
火薬

20世紀初頭の艦載兵器
日清戦争の日本の軍艦
日露戦争の日本の軍艦
日露戦争のロシア艦隊
帝政ロシア海軍の軍艦


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新規作成日:2002年2月24日/最終更新日:2002年2月25日