日露戦争のロシア陸軍指揮官

アレクセーエフ極東総督

ロシアの東方進出を推進した中心的人物で、皇帝の信任も厚くしばしば国政を壟断した。海軍大将であったが、極東地区の内政・外政・軍事の三権を掌握し対日政策では日本の戦力を過小評価し強硬路線を取った。

クロパトキン大将

陸軍大臣として訪日したクロパトキンは予想以上に進む日本の近代化と軍備に驚き対日非戦論側に立ってロシア宮廷内で論陣を張ったが反対勢力に破れ平和派のウイッテ蔵相、ラムスドルフ外相が罷免され、クロパトキンは開戦とともに満州軍総司令官に任じられた。 一方、極東には軍事に対しても指揮権を有するアレクセーエフがおり指揮系統は二分化する結果となった。クロパトキンは当初から全軍を満州奥地に引き上げ日本軍の補給線が伸び切った時点で一大攻勢に出る戦略であったが、アレクセーエフはこれを許さず中途半端な参戦指導とクロパトキンの精神的弱さから連敗し奉天の会戦後罷免され第1軍司令官に降格となった。戦後は革命に巻き込まれるなどしたが最後は小学校教師として生涯を終えた。

コンドラチェンコ少将

旅順要塞司令官の一人で将兵の信頼が最も厚く、手腕に富んでいたが上司のステッセル中将からは疎まれた。砲兵出身で要塞の構築も上手く南山要塞を短期間に完成して第2軍に多大な被害を与えた。旅順攻防戦でも勇敢に防御戦を指揮したが日本軍の砲撃によって戦死した。旅順要塞司令官の一人で将兵の信頼が最も厚く、手腕に富んでいたが上司のステッセル中将からは疎まれた。砲兵出身で要塞の構築も上手く南山要塞を短期間に完成して第2軍に多大な被害を与えた。旅順攻防戦でも勇敢に防御戦を指揮したが日本軍の砲撃によって戦死した。

ステッセル中将

旅順要塞の司令官であるが、実は後任のスミルノフ中将に指揮権を渡すよう命令されたにもかかわらずこれを握り潰し要塞司令官として居座った人物。部下に対して過酷なことから将兵には嫌われていた。203高地陥落後は急速に戦意を失い、砲弾、将兵が十分あったにもかかわらず降伏したとして戦後ロシアの軍法会議にかけられ有罪となった。

リネウィッチ大将

戦術家としてはクロパトキン大将以上と言われ、総司令官クロパトキン大将を補佐し日露戦争を戦った。奉天の会戦では第1軍司令官として参戦し、後にクロパトキン大将に代わりロシア軍の総司令官となったが終戦となった。貪欲な点も指摘され、義和団事件では北京入城時に彼が先頭に立って略奪に走ったとも言われる。


日露戦争
戦艦 三笠
日露戦争の日本海軍指揮官
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日露戦争のロシア海軍指揮官
日露戦争のロシア陸軍指揮官
日露戦争でロシア海軍は本当に弱かったのか


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新規作成日:2002年2月25日/最終更新日:2002年2月25日