日露戦争の日本海軍指揮官

秋山真之(中将)

愛媛県出身。兄は日本騎兵育ての親と言われ、陸軍きっての勇将秋山好古中将。「知謀涌くがごとし」と呼ばれ、日露戦争では連合艦隊参謀として作戦の立案にあたった。いささか奇人の癖があり、ところかまわず空豆をかじるなどの奇行が伝わっている。 文才も有り、バルチック艦隊を発見し艦隊が出撃する際、大本営に打電した「…天気晴朗ナレドモ浪タカシ」は有名。ネボガトフ・ロシア第3艦隊の降伏受諾の際には使者となった。 戦後、海大教官、第一艦隊参謀長、軍務局長、第2水雷戦隊司令官などを歴任したが健康を害し予備役となった。大正7年2月4日没。50歳

安保清種(大将)

佐賀県出身。日露戦争では始め巡洋艦「八雲」砲術長として黄海海戦に参加し、戦艦「三笠」砲術長として日本海海戦を戦った。 ロシア艦の艦名を砲手に覚えさせるため「國親父座ろう(クニャージ・スワロフ)」「あきれ三太(アレキサンドル三世)」「ゴミ取り権助(ドミトリー・ドンスコイ)」とあだ名をつけた逸話は映画でも有名。 海戦では自ら測距儀でバルチック艦隊との距離を測り、彼我の距離8000メートルになるに及んで「最早八千メートル、どちら側で戦さをなさるのですか!」と大声でつぶやいた逸話は有名。右舷か左舷かを決めなくては砲戦の準備が出来ないわけであるが、東郷や加藤をどなるわけにも行かず、苦肉のつぶやきだった。 戦闘中は測敵と射撃修正で獅子奮迅の働きをしつつ、艦内勤務の将兵の為に伝令を使って戦闘の実況を行った。 戦後、第2艦隊参謀長、軍令部次長、横須賀鎮守府司令長官、ロンドン軍縮会議随行員、海軍大臣を歴任。昭和15年退役した。昭和23年6月8日没。78歳。

有馬良橘(大将)

和歌山県出身。日清戦争では東郷平八郎が艦長を勤めた巡洋艦「浪速」の航海長として活躍し、東郷の信任が厚かった。 日露戦争では、海軍省原案を変更して東郷司令長官が連合艦隊先任参謀として起用。旅順閉塞作戦の発案者としても有名。 戦後は、「音羽」「磐手」艦長、第2艦隊参謀長、砲術学校長、教育本部長、第3艦隊司令長官などを歴任した。大正11年予備役となり、昭和6年明治神宮宮司となり、東郷平八郎の国葬では葬儀委員長を勤めた。昭和19年5月1日没83歳。

飯田久恒(中将)

東京都出身。日清戦争では「厳島」乗り組みとして威海衛の夜襲に参加。日露戦争では連合艦隊参謀として参加。日本海海戦で負傷した。

伊知地季珍(中将)

鹿児島県出身。日露戦争では、第2艦隊旗艦「出雲」艦長として活躍。戦後は、「鹿島」回航委員長となり英国にわたり戦艦「鹿島」を受領し同艦艦長となった。 後、呉工廠長、第2艦隊司令長官、艦政本部長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任し大正6年予備役となった。昭和14年4月7日没

伊知地彦次郎(中将)

鹿児島県出身。日清戦争では「橋立」分隊長として黄海海戦に参加。日露戦争では戦艦「三笠」艦長として参戦した。黄海海戦では艦橋付近に直撃弾を喰い重傷を負ったが、回復後日本海海戦では再び「三笠」の指揮を執った。 戦後、練習艦隊司令官、馬公要港部司令官などを歴任。明治45年1月4日没53歳。

伊集院五郎(大将・元帥)

鹿児島県出身。明治10年から約9年間英国に留学し、水雷術、砲術、用兵などを学び帰国して「伊集院信管」を開発した。日露戦争では「下瀬火薬」と「伊集院信管」を有する日本が従来の綿火薬のロシアを圧倒した。 主に軍令部系で作戦指導に関与し、日清戦争では軍令部第一局長、日露戦争では軍令部次長であった。 戦後は、第一艦隊司令長官、軍令部部長などを歴任し、艦隊司令時代の猛訓練は有名で「月月火水木金金」の基となった。山本権兵衛の三羽がらすと呼ばれたが、大正3年発覚したシーメンス事件で引責辞任。大正10年1月13日没。68歳。

瓜生外吉(大将)

石川県出身。米国アナポリス海軍兵学校留学の経歴を持ち、日露戦争では第4戦隊(巡洋艦「浪速」「高千穂」「明石」「対馬」)を率いて参戦。緒戦の仁川沖海戦を始め黄海海戦、日本海海戦などに活躍した。 戦後、佐世保鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任。昭和12年没。80歳。

片岡七郎(大将)

鹿児島県出身。日露戦争では、日清戦争時の主力艦であった「厳島」「橋立」「松島」「鎮遠」などの旧式艦を中心とする第三艦隊を率いた。「滑稽艦隊」と呼ばれたが、対馬海峡の警備、陸軍の上陸支援、バルチック艦隊の索敵など黙々と任務を果たした。一説には東郷司令長官に万一の場合の後任とも言われている。その後、艦政本部長、軍事参議官などを歴任。海軍史上最大の汚職事件シーメンス事件では軍法会議の判士長を勤め大正6年勇退。大正9年1月2日没。67歳

加藤友三郎(大将・元帥)

広島県出身。日露戦争では当初、第2艦隊参謀長として上村司令長官を補佐し、後に連合艦隊参謀長となり東郷司令長官を助けた。戦後、軍務局長、海軍省次官、第一艦隊司令長官などを歴任し大正4年第2次大隈内閣の海軍大臣として入閣した。 以来。7年10カ月の間海軍大臣として活躍し、第1次大戦を乗り切り、ワシントン軍縮会議では海軍内の強硬派を押さえて会議を成功に導いた。大正12年8月15日首相在任中に大腸ガンで没。62歳。

上村彦之丞(大将)

鹿児島県出身。日清戦争では巡洋艦「秋津州」艦長として豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛攻撃に参加。 日露戦争では第2艦隊司令長官となった。緒戦でウラジオストックのロシア艦隊の跳梁を許し、その迎撃の任にあたった上村は世論の攻撃を受け苦境に立ったが、蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を撃滅し溜飲を下げた。 同海戦での敵艦乗組員救助の逸話は美談として喧伝され、「わが国武士道の誉れ」として賞賛された。日本海海戦では東郷長官率いる第一艦隊と共同しバルチック艦隊を撃破。 海軍将官は普通「提督」と呼ばれるが、上村は例外的に「将軍」と呼ばれ「船乗り将軍」と親しまれた。斗酒なお辞さずの酒豪であったが、日蓮宗の熱心な信者であったと言われる。戦後、第一艦隊司令長官などを歴任し大正8年8月8日没。67歳。

川島令次郎(中将)

石川県出身。日清戦争中は侍従武官を勤め、日露戦争では海防艦「松島」艦長として対馬海峡警備にあたり、装甲巡洋艦「磐手」艦長となって日本海海戦に参加。戦艦「ウシャーコフ」を撃沈した。

黒井悌次郎(大将)

山形県出身。日露戦争では、海軍陸戦重砲隊指揮官として旅順攻略の一翼を担った。黒井中佐指揮下の重砲隊は当初十二斤速射砲10門、安式12センチ砲6門で構成され後には28センチ砲も加わり、旅順要塞の攻撃、旅順港への間接射撃などで効果をあげた。

佐藤鉄太郎(中将)

山形県出身。日清戦争では砲艦「赤城」の航海長として黄海海戦に出撃し負傷。日露戦争では第2艦隊参謀として上村司令長官を助けた。 佐藤は出羽庄内藩士の家に生まれ、十三歳の時に鶴岡から徒歩で上京し築地の海軍兵学校ジュニアコースに入った。剣道家としても知られ、心形刀流・伊庭相太郎に師事した。 戦後、第一艦隊参謀長、軍令部長などを歴任し大正12年予備役となった。昭和17年3月4日没。72歳。

島村速雄(大将・元帥)

高知県出身。日清戦争では単縦陣による戦闘方法を進言。黄海海戦の勝利に貢献した。加藤友三郎、藤井鮫一とは兵学校同期。 日露戦争では、連合艦隊参謀長として秋山以下の参謀をよくまとめ東郷司令長官を補佐した。「敵に海戦を知っている提督が一人でもいれば対馬海峡に来る」とバルチック艦隊の航路を断言した逸話は有名である。 日本海開戦時は第2戦隊の司令官として装甲巡洋艦を率いて活躍。撃沈したロシア海防艦「アドミラル・ウシャーコフ」の乗組員の救助など知勇兼備の名将であった。 戦後も作戦面の功績は秋山参謀に帰し、一歩下がった謙虚な姿勢はその人柄を示している。 戦後、軍令部部長などを歴任し加藤友三郎海軍大臣を補佐した。大将12年1月8日没。65歳。

鈴木貫太郎(大将)

千葉県出身。日清戦争では水雷艇を指揮して清国戦艦「定遠」を威海衛に夜襲して撃破し、日露戦争では日本海海戦で第4駆逐隊司令としてロシア戦艦「ナハリン」「シソイウェリーキー」を撃沈した。 駆逐艦指揮官の当時は「鬼の貫太郎」のあだ名の通り闘志満々の海軍士官であったと言われる。 人事局長、海軍次官、第一艦隊司令長官を歴任し昭和天皇の信任が厚かった。 二・二六事件で襲撃され重傷を負ったが、回復後枢密院議長を勤め昭和20年天皇の強い要請により首相に就任。太平洋戦争の終結に努め、ボツダム宣言を受諾。混乱する軍部、政府内を良くまとめ本土の荒廃を防いだ。昭和23年4月7日没。81歳。

武富邦鼎(中将)

日露戦争では第3艦隊第5戦隊(海防艦「厳島」「橋立」「松島」「鎮遠」)司令官として日本海海戦に参戦した。

出羽重遠(大将)

福島県出身。日清戦争では西海艦隊参謀長、常備艦隊参謀長の任にあり、戦後は軍令部次長などを勤め日露戦争開始とともに第1艦隊第3戦隊(巡洋艦「千歳」「高砂」「笠置」「吉野」)司令官として各海戦に活躍した。戦後、第一艦隊司令長官、軍事参議官などを歴任したが、公平無私の姿勢を高く評価されシーメンス事件の査問委員長も勤めた。出羽大将は薩摩閥以外から初めての海軍大将である。昭和5年1月27日没。74歳。

寺垣猪三(中将)

石川県出身。「松島」「吉野」「浅間」などの艦長を歴任し、日露戦争では装甲巡洋艦「浅間」艦長として参戦し、日本海海戦では「敷島」艦長として活躍した。海戦に先立ち寺垣艦長は、四斗樽を開け上甲板で将兵と決別の杯を交わした。「敷島」はすでに旧式となっていたため、敵艦と指し違えてもバルチック艦隊を撃破するという覚悟の杯であった。 第3艦隊司令長官などを歴任し、昭和13年6月1日没。

村上格一(大将)

佐賀県出身。日清戦争では新鋭巡洋艦「吉野」の水雷長として活躍。 日露戦争では仁川港の偵察と居留民保護のためぎりぎりまで港内に止まり、開戦と決まるや深夜に脱出。仁川沖海戦に参加し日露開戦の緒戦を飾った。日本海海戦では「吾妻」艦長として参戦した。 戦後、艦政本部長、第3艦隊司令長官、教育本部長などを歴任し大正13年海軍大臣となった。在任5カ月で軍事参議官となり退役。昭和2年11月15日没65歳。

日高壮之丞(中将)

鹿児島県出身。日清戦争では当時の主力艦「橋立」艦長として奮戦。海軍薩摩派の代表格の猛将であった。 海軍大臣山本権兵衛とは幼なじみであり、日露戦争直前の明治35年には常備艦隊司令長官(戦時の連合艦隊司令長官)となり対露戦は我が手で…と自信満々であったが、東郷に交代させられた。日高は猛将であったが、著突のきらいがあり挙国一致の体制には不向きとみられたようである。 舞鶴鎮守府司令長官のあと待命となり、明治42年予備役、昭和7年没。

藤井鮫一(大将)

岡山県出身。日露戦争では、加藤友三郎の後をうけて第2艦隊参謀長として上村司令長官を補佐した。バルチック艦隊の来航に関しては対馬海峡通過説を極めて合理的に主張。戦後は、第一艦隊参謀長、第一艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官などを歴任し、大正5年軍事参議官を最後に勇退。大正15年7月8日没。68歳。

山下源太郎(大将)

山形県出身。日露戦争では大本営参謀として活躍。御前会議の決定をうけて山本海軍大臣の発した出撃命令書を東郷に伝達したのは当時中佐の山下であった。バルチック艦隊の対馬海峡通過説を島村とともに主張。後に海兵学校長となったが生徒の信頼も厚かった。山本五十六なども薫陶を受けた一人と言う。軍令部部長などを歴任し、昭和3年予備役。同6年2月18日没。68際。

山本権兵衛(大将・元帥)

鹿児島県出身。薩摩藩士出身で薩英戦争、戊申戦争に従軍し海軍に入り、ドイツ軍艦に乗艦して海上勤務の実体に触れ、先進各国の海軍事情を修得。 明治24年海軍省官房主事となって時の海軍大臣・西郷従道のもと辣腕をふるった。 制度・人事・組織・艦艇の整備にその能力を発揮し、新興国の海軍を一躍一流海軍に育て上げた。 山本の凄みは、その人事施策にあり「人材さえあれば艦船砲機はついてくる」と人事の近代化・合理化に取り組んだ。維新の功臣達でも近代海軍にそぐわないとの理由で、明治26年には将官8名を含む97名の士官を予備役に編入した時は、元老の山県有朋、井上馨などを説得し人員整理を断行した。 日露戦争においては、幼なじみではあるが著突猛進型で独断専行のきらいのある日高司令長官を東郷に替えるなどその人事感は公正無私であった。 また、主力艦を戦艦と装甲巡洋艦の組み合わせの6・6艦隊となし、機動力と打撃力のバランスを取り戦力の充実に勤め、日露風雲急を告げると外国艦を買い取って戦力の欠落に備えるなど冴えをみせた。 この艦はイタリア製の巡洋艦「春日」「日進」となり、戦艦「八島」「初瀬」の触雷喪失後は戦艦部隊に編入され活躍した。


日露戦争
戦艦 三笠
日露戦争の日本海軍指揮官
東郷 平八郎
広瀬 中佐
日露戦争の日本陸軍指揮官
日露戦争のロシア海軍指揮官
日露戦争のロシア陸軍指揮官
日露戦争でロシア海軍は本当に弱かったのか


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新規作成日:2002年2月25日/最終更新日:2002年2月25日