ロシア軍艦ディアナ号とプチャーチン提督
1854年、ペリー艦隊が下田を去って4ヶ月後、ロシアのプチャーチン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航しました。
当時ロシアは、クリミヤ戦争で、びその同盟国のイギリス、フランス両国との間で戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めて来たのです。
条約の内容は、水や食料の供給と千島列島の国境問題の解決にありました。
プチャーチンは、数多くの苦難を乗り越え、下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。
1854年11月第1回目の日露交渉が福泉寺において開かれ、双方の主張が述べられた。
その後第2回目の交渉を約束後、不運にも翌日(11/4)午前に大地震が発生し、大津波が下田をおそいました。(安政の大地震)
何度かの津波と引き潮により、ディアナ号は、42回も回転したと言われています。
プチャーチンは、ディアナ号が大破したにもかかわらず、乗員と医師を陸上に派遣し、下田の人々を救助や医療の援助をおこなっている。
この津波ためディアナ号は、自力航行不能になり、西伊豆の戸田(へだ)へ修理のため曳航中、風と波により数百隻の救助活動もむなしく、ついに宮島村沖で沈没してしまいました。
乗員約500人は、全員救助され戸田へ収容されました。
それでも12月21日には長楽寺で日露和親条約が締結されたのです。
今でもこのときの津波で犠牲となった人達を供養する「つなみ塚」が稲田寺に残されています。
ディアナ号
プチャーチン提督の乗艦ディアナ号は、当時の帝政ロシアの最新鋭の軍艦(フリゲート)でした。
長さ52メートル、2,000トンの木造帆装軍艦で、大砲52門を搭載、乗員500名、その艦首にはロマノフ王朝の権威を象徴する双頭の鷲(ワシ)の紋章が金色に輝いていました。
ディアナ号の修理に当たっては、搭載していた砲を下田に降ろし、後に幕府に譲渡されています。
その後、函館要塞築城に際し、搬送設置されています。
このうち4門は、函館戦争の際、回天に搭載され、官軍と交戦。沈没した回天より引き揚げられた砲は、函館と靖国神社に展示されている。
尚、ゴローニン(ゴローウニン)が乗艦していたのは、先代のスループで、別の艦です。
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ディアナ号を戸田に回航した理由の推測
当時、ロシアはクリミア戦争で交戦中であり、我が国の開港場である下田は、英仏艦の寄港も考えられ危険であった。
実際、下田に寄港したフランス艦を、ディアナ号乗員が奪取する動きも合った。
浦賀は、江戸にも近く、また、街の賑わいから見て、500名からのロシア乗員を留め置くには、幕府として難が有った。
その為、海浜に船体を引き揚げることが可能で、また、比較的隔絶されている戸田の地が選ばれたものと考えられる。
プチャーチン
1803〜1883 ロシア海軍元帥・伯爵。
ラクスマン・レザーノフに次ぐ第3回遣日使節。
1853年(嘉永6)旗艦パルラダ号ほか3隻の黒船を率いて長崎に来航、日露通商・国境制定の件で、幕府全権筒井政憲(まさのり)・川路聖謨(としあきら)らと会談を重ねた。
翌年ふたたび下田に来航、安政元年(1855)の地震・津波で旗艦ディアナ号が大破した。
老中阿部正弘・韮山代官江川恒庵はロシア人の救難を命じ、日露両国の協力で伊豆西岸戸田(ヘだ)村において洋式帆船が建造された。
同年12月に日露修好条約を結び、千島列島のウルップ島以北を露領、エトロフ島以南を日本領と定め、樺太島は国境を設けず日露共有の地と定めた。
安政5年(1858)にも下田に来航し日露修好通商条約を結び、清国とは天津条約を締結した。
翌1859年に海軍大将に昇進。また日露国交・友好に貢献した功績によって明治14年(1881)日本政府から勲一等旭日章が贈られた。
アメリカのペリーが「砲弾による威圧」によって開港を迫ったのに対し、ロシアのプチャーチンは「対話」に徹した。
皇帝ニコライ一世から、「あくまで平和的手段」で「直接の話し合い」により友好の道を開けと、命令されていたのである。
また、下田で遭遇した、安政元年の地震・津波では、ディアナ号が大破しているにもかかわらず、漂流する日本人3名を助け、また、陸上へ医師団を派遣したことも注目に値する。
のちにプチャーチンは、遺言で、戸田村に百ルーブルを寄贈した。(正確な換算はできないが、当時の数百円、現在の感覚では数百万に相当すると思われる。)
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日露和親条約
1854年、下田の長楽寺でプチャーチンと幕末全権の筒井政徳、川路聖謨との間で日露和親条約が結ばれました。9カ条の本文と4カ条の付録からなっています。内容は、ペリーとの条約とほぼ同じですが、北方4島を日本領とする領土のことが定められています。
ヘダ号
ディアナ号の沈没を知った戸田(へだ)の船大工と住民が協力して、天城山の木材を利用して新しく洋式船を突貫工事(約3ケ月)で造りあげました。(1855年3月10日)プチャーチンは住民に感謝して、この船の名前を「ヘダ号」と名付けて47人と共に帰国しました。
この時の船大工、上田寅吉と鈴木七助は、後に長崎伝習所に行き勝海舟と出会うことになります。
また、緒明菊三郎は横須賀の浦賀ドックを造り、近代の造船業に大きな貢献をしました。
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洋式帆船建造地碑(戸田)
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ゴローニン(ゴローウニン)
ロシアの軍人。ディアナ号で、1811年に南千島を測量中、国後島で松前藩の役人に捕らえられて2年間監禁された。これに対して、ロシアは蝦夷地貿易商の高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)を捕らえた。しかし、高田屋嘉兵衛は事件の解決に尽力し、1813年に両者は釈放された。ゴローニンが帰国後直ちに書いた抑留中の手記『日本幽囚記』は、各国語に訳されて有名になっている。
尚、ゴローニン(ゴローウニン)が乗艦していたのは、先代のスループで、プチャーチンの時とは別の艦です。
長楽寺(下田)
1854年、ここでロシア使節プチャーチンとの日露和親条約が調印され、翌年、日米和親条約の批書交換が行われた。
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玉泉寺(下田)
安政3年8月5日(1856.9.3)、ハリスが初の領事館を開いたお寺です。ロシア艦ディアナ号乗員の墓、ペルリ艦隊乗組将兵の墓がある。
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宝泉寺(戸田)
プチャーチンの宿所。露人の墓がある。
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- 1804年
ロシア使節レザノフ、通商を求めて長崎に来航。幕府はレザノフを町外れに軟禁し、半年も経って通商拒絶を言い渡した。憤激したレザノフは部下に蝦夷地襲撃を指示し、北方での紛争が続いた。
- 1811年
ロシア軍艦ディアナ、南千島を測量。艦長ゴローニンは、国後島トマリで松前藩の役人に捕らえられて2年間監禁された。「ゴローニン事件」
- 嘉永 6.6.5(1853.7.10sun) 香港を出港
- 嘉永 6.6.18(1853.7.23sat) 軍艦パルラダ号が香港に到着
- 嘉永6年(1853)7月
ロシア使節 極東艦隊司令長官プチャーチン、長崎来航。
- 嘉永 6.7.18(1853.8.22mon) ロシア極東艦隊が開港をもとめ長崎に入港
- 嘉永 6.8.17(1853.9.19mon) 長崎奉行大沢豊後守が立山役所で会見
- 嘉永 6.12.5(1854.1.3tue) ロシア艦隊が突然長崎に再来
- 嘉永 7.1.8(1854.2.5sun) 長崎を退去する
- 嘉永 7.8.30(1854.10.21sat) 軍艦ディアナ号が箱館に入る
- 嘉永 7.9.19(1854.11.9thu) 軍艦ディアナ号が大坂の安治川口沖へ碇泊
- 嘉永 7.9.20(1854.11.10fri) 大坂より下田に入港
- 嘉永 7.10.14(1854.12.3sun) 軍艦ディアナ号が下田に入港する。
- 嘉永7年(1854)10月15日
プチャーチン(露国使節)、伊豆下田へ来航
- 嘉永7年(1854)12.12
修理のため、伊豆下田から伊豆戸田村へ回航中のディアナ号沈没
- 安政 2.3.22(1855.5.8tue) プチャーチン以下47名のロシア士官らは戸田号で帰国する
- 1855(安政2).3.22
プチャーチン(露国使節)等40余名の露艦ディアナ号乗組員、戸田村において建造した新船により帰国
- 1855(安政2).6.1
露艦ディアナ号乗組員の残留者270余名、ドイツ船グレタ号を傭船して帰国の途につくも、英軍艦に拿捕され、英國本国に抑留、1856年3月、クリミヤ戦争終結後にようやく帰国
- 安政 4.8.4(1857.9.21mon) 軍艦アメリカ号で、再度長崎に来航する
- 安政 4.9.10(1857.10.27tue) 日露追加条約を締結し長崎を去る。
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新規作成日:2003年6月24日/最終更新日:2002年12月30日