科目の略称:
CRIS=Conflict Resolution in International Society
CCR=Culture and Conflict Resolution
ACD=Arms Control and Disarmament
NEMP= Nationalism and Ethnicity in Modern Politics

+++ブラッドフォード大学平和学科留学体験記+++

−留学日誌−
(「日記」改め「留学日誌」になりました。でも、内容は今まで通り…。)

過去の日記
2003年
11月分
| 12月分
2004年
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2004/6/14(月) 映画三昧、日本帰国、新しい生活の始まり。。僕の平和。

飛行機はハイテクだった。エコノミーだけど、最新の機種で、自分で好きなときに好きな映画を見られる。音楽も自分でプレイリストを作って、好きな曲を聴ける。KLMは嫌いになってけど、この機種は好きになった。

飛行機は午前9時過ぎに成田に到着。到着ゲートを出て、日通のカウンターへ。ブラッドフォードから送った「別荘品」扱いの荷物は、ここで申請しないといけないらしい。すべてが初めて。

リムジンバスで成田を出発する。実家は都内の某区。東京の再開発の動きの中心のような場所で、去年は未完成だった地区が発展していた。

帰宅後、シャワーを浴びる。その後、家で時間をつぶすけど、時差ボケもなく、やることがなくて暇になった。帰国が一日早まったことは友達に言っていないので、どうしようかと思う。家に居ても仕方ないので、とりあえず友達に電話して大学で待ち合わせることにした。帰宅して数時間も経たないまま家を出て、大学へ向かう。通学45分。自宅も都内で、大学も都内。東京では恵まれている方だ。でも、ブラッドフォードの通学徒歩5分の生活とはまったく違う。

日本の大学は、相変わらずだった。イースター休みに3月から4月にかけて一度帰国したので、そのとき以来。そんなに時間は経っていない。でも、そのときは、数日でイギリスへ帰ると決まっていた。でも、今日は違う。当分、ここに通い始めることになる。そう思うと、自分が違う世界へ来てしまったようで、少しブラッドフォードが懐かしく感じた。キャンパスで友達に会った。みんな"お帰り”や“一年は早いねー”なんて言う。僕のことを覚えていてくれて嬉しいと思った。

その後、友達と夕方から夜9時までずっと話していた。特別な話をするわけじゃない。10ヶ月の不在を感じさせない雰囲気。そいうのが好きだ。「留学」なんて、それほど肩を肘を張ってするものじゃない。気軽に、“ちょっと行ってくるよー”くらいがいい。帰ってきても、特別視をしてくれない人がいてくれればもっと気楽になれる。

今日はそんな感じで終了。僕の留学もこれで終了。最終的な成績は、夏休みの間にブラッドフォードから送られてくる予定。だから、そのときに「勉強の成果」がわかる。今日は、イースター休みに帰ってきた時と同じように、特別な意識なく日本に帰ってきた。普通に都バスやJRに乗って、都内を移動した。どう見てもブラッドフォードとは違う。でも、ここも僕の生活空間。早速、旧ユーゴ関連の仕事もできるし、他にも広島・長崎関係の国際交流系のバイトも紹介してもらった。これから日本でやりたいことがある。ブラッドフォードではやりたいとこをやった。それが終わった。特別に悔やむこともない。ブラッドフォードでの10ヶ月の留学は、やっぱり一通過点。懐かしいこともあるけど、それを振り返ってばかりいてはいけない。前に進もうとしてブラッドフォードに行った。だから、日本に帰ってからも前に進まないと意味がない。まだまだ若いうちは進み続けなければ。新しい行き先を見つけるために、色んなことを経験しなければ。

ブラッドフォードに留学したいと思ってから3年をかけた。英語を勉強して、語学的には不安の無いようにした。留学手続きも自分でした。奨学金ももらった。現地で自分で生活した。何もかもが自分で取り組まないといけないことばかりだった。初めて身の回りのことをすべて自分でした。そういう意味で、ブラッドフォードでの生活や勉強を無事終えたことは、自分にとって大きな自信となったと思う。今回の留学の目的でもある「自分の英語力の確認」と「平和学・紛争解決学を知る」の二つは、どちらも達成できたと思う。満足が不満足といえば、「満足」だと思う。でも、決して「十分」ではない。自分自身の能力、この分野の限界にも気づいた。だから、ハングリー精神を忘れずに今後も「勉強」は続けないといけないと思った。

ブラッドフォードでの勉強は、僕を物事を解決型の思考で考えられるようにした。何が問題の原因で、それを解決するための方法はあるのか?常にそういう思考をするように要求されていたのだから。でも、たった10ヶ月学部レベルで勉強した程度で、「教養が身に付いた」くらいの進歩しかないと思う。紛争解決や平和構築という問題は、頭で分かっていても、それを実現できなければ、結局は意味が無い。実現出来てこそ、本当の意味での勉強の成果が分かる。だから、今後の僕に必要なのは、少しではあるけど、そういう身に付けた「知識」を些細なことにでも現実で応用していくことだと思う。経験も勉強も今後も必要だ。ブラッドフォードで勉強したことを現実のどのような場面で利用していくか。これは学問と現実を考えたときに直面する大きな問題だ。平和学や紛争解決学は、従来の学問が持っていたそんな問題を克服しようとする試みでもある。でも、まだ新しい。「理想」と言い捨てられそうなことばかりである。でも、それを実現しようとしている人がいる限り、その実現化の可能性はなくならない。そんな可能性を僕は信じるし、ブラッドフォードに留学することを決意するきっかけにもなった旧ユーゴの人たちのことを思い出す限り、それを疑うことはできない。

まだまだ僕の人生は始まったばかり。人生80年の中のたった10ヶ月が全てではない。一通過点として、今後も着実に前進していこう。時には振り返ることもあるだろうけど、出来る限り前向きに、そして建設的に物事に取り組みたい。それがブラッドフォードで学んだ証になるように。もしかしたらブラッドフォードも大学院を目指すかもしれない。そのときは、この日記を読み返そう。モチベーションとしての情熱を保ちつつ、理性的な冷静さを取り戻すために。

めったに「平和」という言葉は使わない。使いたくない。でも、少しでも平和を考え、それを実現しようと方法を模索することは大切だ。そのためには「平和」の意味と実現方法を常に考えていないといけない。僕の考える平和はとても単純だ。「自分が優しい気持ちでいられる状態。他人に優しく出来る余裕がある状態。そして、人々の間に常に「対話」があり、それが切断されない状態。」これが僕の考える平和の最低条件。

>日記を読んでくれた方
みなさんの貴重な時間をこんなつまらない人間の日記に費やしてくれてありがとう。少しでも多くの人が平和学や紛争解決学に興味を持ってくれたらと思います。

2004/6/13(日) イギリス出国、アムステルダム経由、日本へ出発

朝7時に起きて、朝食を食べずに8時にホテルを出発した。空港まではタクシーで数分。近いのでゆっくり。

空港に着いて、チェックインカウンターへ向かう。今日は飛行機に乗れるのか。当たり前のようなことに疑問を思う状況だ。当たり前だけど、僕の席は確保されていて、チェックインの作業は進む。以外にも荷物の重さには何も言われなかった。イギリスを出発するときは、成田で多額の超過料金を請求されるハメになったのが不思議なくらい。こういう適当さは許せる。。

飛行機は定刻どおりに離陸。1時間もしないうちにオランダのアムステルダムに到着。乗り換え時間は2時間ほどしかない。なので、お土産を買ったりした。何度もアムステルダムの空港には来たけど、毎回ターミナル内の「すし屋」に立ち寄る時間がなくてあきらめていた。今日は時間があったので、持ち帰りですしを買った。広いアムステルダムの空港を歩いて搭乗ゲートへ向かう。日本行きの飛行機だから、沢山日本人観光客が待っていた。手荷物として無理矢理、バイオリン、パソコンの周辺機器の入ったジェラルミンケース、リュック、お土産など、僕一人で大量の荷物を持っている。“大変そうねぇー”なんて顔で見られる。

日本行きの飛行機は、若干の遅れがあったものの無事離陸。あとは、自動的に日本へ着く。

2004/6/12(土) 飛行機に乗れず…これがイギリスか…。

8時に起床。最終的なパッキングを済ます。昨日に引き続いて、来年度のIVSPの友達に生活品をあげる。

12時には寮を出ないといけない。11時半に部屋を出て、鍵を返す。これで終了。タクシーで空港へ向かった。タクシーの運転手はバングラデシュ系のお兄ちゃん。日本車が性能の良さを何度も語っていた。あと、2人の子供には必ず大学に行かせると言っていた。“貧乏は貧乏のまま、金持ちは金持ちになる。それがイギリス。”と言い、教育の大切さも語っていた。

 
来英したばかりのような部屋の様子


少なくした荷物@寮の前

空港についてのは12時。飛行機は4時なので、チェックインまで時間をつぶす。2時になって、大量の荷物を持ってチェックインカウンターに行く。すると、チケットを見せた途端、“予約がされていません。向こうのカウンターでチケットを変更してもらってください”と言われる。オープンチケットなので、数週間前に仮に決められていた出発日を変えた。なので、新しいチケットに換えないといけないのかと思った。

で、指示されたカウンターへ行き、チケットの変更を頼むと、“6月22日の出発予定で、何も変更されていませんよ。”と言われる。呆然。唖然。言葉が出ない…。“はっ?なに言ってるの?電話で数週間前に変更して、確認までしてるんだよ。よく調べてよ。”僕がそう言うと、カウンターのおばさんはパソコンでカチカチと調べている。でも、“変更されていません。変更された記録がない。”と言う。ありえない…。そんな言葉を聞いて、カチンと来た。クレームの嵐を浴びせる。“何度も電話して、指示されたステップを踏んで、確認番号までもらって変更の確認をして、電話でオペレーターにすべて変更されたと言われたんだ!僕の責任じゃない。どうにかしろっ!!!(怒)”と大声で叫ぶ。すると、カウンターのおばさんは、“私の仕事じゃないから、私に言われても困る。”と言う。アホかっ!!こっちは、「KLM」を相手にしてるんだから、オペレーターだろうがカウンターの人間だろうが、相手は同じ「KLM」。そんな無責任な発言にさらに腹が立った。“責任者を出せ!あなたが分からないなら責任者を出せー!!!”。そう何度も叫んだ。でも、そのカウンターのおばさんは人事のように言う。で、“アムステルダムで2泊することはあなたのチケットでは基本的に出来ない。そのように変更するには£300を払わないといけないですよ。東京からそういう指示が来ていますが”と言う。“そんなこと知らん。何も言われていない。そんな重要なことを告知しないで、「変更しました」と僕に言って、空港に来させて、£300を払わせるのか?”と問い詰める。“そういうことになっています。東京からそのように伝えるようにとの通達が来ています。”と言う。話にならない。通達云々というのはKLMの問題であって、僕に伝えていない以上、何の意味もない。これ以上のおばさんと話していても仕方ないので、直接KLMへ電話することにした。

出てきたKLMにオペレーターにまずは事情を説明する。どれだけ僕が怒っていて、憤っていて、飛行機に乗らないといけないかを間髪入れずにしゃべり続ける。オペレーターは、カウンターのおばさんと同じようにアムステルダムに泊まるには£300を払わないといけないと繰り返した。“何も告知しないで、£300を払えと言うのは詐欺だろう?”と言うと、“ルールに従っているので、詐欺ではありません”と言う。・・・・。ルールを説明しないで、勝手にルールだと言うのを詐欺と呼ぶんだ!!詭弁である。そもそも、そんなことが問題じゃない。“何度もコールセンターに電話して、変更手続きをして、確認番号をもらって「変更しました」と言われたんだ!それで、変更されていないと言うのはどういうことなんだっ!!!!(怒)”と更に猛抗議。こっちは、帰る場所もなく、荷物を沢山抱えている。22日まで待てるはずがない。荷物の重さが規定を超えたときに言えばいいと教わった「I'm paying full pare!!!」という言葉を思わず使ってしまった。きっと正しい用法だったに違いない。

で、結局、明日の午前中にLeeds/Bradford空港を出発して、アムステルダム経由で、観光もせず、日本行きの飛行機に乗ることになった。追加料金はなかった(元々、発生しないけど)。そんなことで、アムステルダム観光がなくなり、予定よりも一日早く日本へ帰国することになった。

仕方ないので、近くのホテルに電話して部屋を確保。重い荷物を抱え、タクシーで移動。ホテルにチェックインして、近くのレストランで夕食を食べる。腹が立ったので、ビールを買って早めに寝た。

今日は本当に腹が立った。普段はそれほど「怒らない」自分だけど、今日は怒った。イギリスに来てこれほど頭に来たのは、こちらに来てすぐに大学の電話担当部署での交渉以来。普段、事務作業が遅いのは我慢できる。予告もなしにセミナーが中止になるのも我慢は出来る。郵便がちょっとくらい遅いのもまぁまぁ我慢できる。でも、フライトの予約という重大な問題までいい加減なのは、死活問題。留学の最後の最後で、「イギリスらしさ」に直面した今日だった。

明日は、午前10時の飛行機でイギリスを出発する。

2004/6/11(金) ブラッドフォード帰宅、プリンタ売却、帰国準備最終

午前9時過ぎにロンドンキングスクロス駅を出発。12時にブラッドフォードに着いた。マルタはマルタでとてもリラックス出来たけど、ブラッドフォードもかなりホッとできる場所と感じた。それくらい暮らし慣れた土地になったのかも。

帰宅途中に郵便局で段ボールを二箱買う。日通で既に荷物は送ったけど、帰りのKLMで荷物の超過料金を恐れてなるべく郵送で送ることにした。

帰宅後、メールチェック。20通ほど来ていた。その後、冬物の服などを段ボールに詰める。そして、売却するプリンタも箱に入れる。荷詰めした段ボールとプリンタをキャリアに乗せて寮を出発。まずは、郵便局で段ボールを送る。郵便局でフランス人の友達と偶然会った。彼も国へ荷物を送ると言う。挨拶してお別れ。とてもさっぱり。。

そのまま町の中古屋へ行き、プリンタを売る。前回テレビを売りに来たときに、プリンタは高くても£25ということだったので、この最高値で売ることを目標にする。Canon製のカラープリンターで、日本から送ってもらったカートリッジが複数。状態はイイ。でも・・・・、電源ケーブルを寮に忘れたっ!!“ケーブルが無いと安いよ”と言われるので、急いで寮に戻る。

寮に戻ると、ドイツ人のフラットメイトが出発の準備をしていた。少し話をして、写真を撮ってお別れ。さっぱり。

そして、電源ケーブルを持って、また中古屋へ戻る。で、結局、£25で売れた。元々£50ほどで買ったので、まぁまぁの値段だったと思う。

帰宅後は、帰国の最終準備。荷物を詰めていく。部屋が徐々に片付いていく。物が少なくなって、この寮に初めて来たときのような状態になった。懐かしさ半分、寂しさ半分。明日、ブラッドフォードを出発する。

今日は、余っていた日本食や文房具の一部を来年度のIVSPの友達にあげた。リサイクルは大切。

明日は、オランダのアムステルダムへ向かう。そこで2泊して、日本へ帰国。帰国日は15日。今後このサイトをどうしようかと考えた。一応「留学体験記」なので、留学が終わればサイトも終了ということになる。でも、まだ追加情報もあるので、日本に帰ってからもボチボチと細かい更新をしようかとも思う。でも、日記(日誌)はやらないかも。また留学したら、再開するだろうけど。

今日は少し変な気分だ。ブラッドフォードでの勉強を終えて帰国出来る嬉しさと、一年間暮らした町を去る寂しさ。日本で会いたい人もいるし、やりたいこともある。だから、日本に早く戻りたい。それでも、ブラッドフォードにも戻ってきたい。そんなわがままな想いがある。こういう感情は本当に初めてだ。不思議で仕方ないし、そんな気持ちを自分でどう落ち着かせたら良いのかもわからない。胸はなぜかドキドキする。自分が何にドキドキしているのかは分からないけど。。とりあえず、平静を装うしかない…。

次の日記の更新は、帰国してからかな。留学体験記は、「帰国の日」で終えるのが一番良いのだろうか。

2004/6/10(木) 散髪@マルタ、出国、イギリス帰国、長すぎるビザ

今日は朝食を食べてから、2時に迎えが来るまでホテルのサロンで散髪をした。4月に日本に帰国したときに髪を切って以来だったので、とても伸びていた。でも、マルタ人の趣味が少し不安だったので、保守的に長めに切ってもらう。そんなに短くしなかったので、あまり変化はないけど、とてもさっぱりした。

午後2時15分に空港行きのハイヤーが来ると聞いていたけど、なかなか来ない。で、結局来たのは2時45分だった。10分で空港に到着。チェックインをしてターミナルへ入る。出発2時間に来たけど、何もなくて時間を持て余してしまった。

飛行機は予定通り出発。3時間ほどでヒースローに到着した。ヒースローのPassportControlで入国審査官にしつこく質問をされる。ビザを持っていることを言ったのだけど、“何を勉強している?”・“どこで勉強してる?”・“いつからイギリスに居るんだ?”などなど。普段より妙にしつこいと思っていたら、“なんで15ヶ月の滞在許可を持ってる?”なんて言われた。“普通、6ヶ月のビザしかあげなんだよ。あなたは15ヶ月のビザを持っている。”と審査官のお兄ちゃんが言う。確かに、去年の8月のはじめにイギリスに来て、ビザの期限は今年の10月。貰ったときも“長いなぁー。1年以上もあるじゃん。”と思った。やっぱりこれは普段はありえないらしい。きっと、入国したのがLeeds/Braford International Aiportという田舎で、ビザ制度が変わる過渡期だったから、入国審査官のおじさんがよく理解していなかったのかも。違法なことをしたわけでもないので、“8月に来たときには、何も要求してないよ。でも、このビザをくれたけど。どうせ12日にはイギリスをまた出発すけどね。”と伝える。ヒースローの入国審査官は、少し不満そうだったけど、なんとか入国させてくれた。ということで、僕は、10月まで、あと4ヶ月もイギリスに滞在できます。ビザ取得で困っている人も多い中で、とてもラッキーな僕だった。

空港からは地下鉄で移動してホテルに向かった。ホテルに着いたのは午後9時。近くのマックでハンバーガーを食べて今日は終わり。明日は、朝早くからブラッドフォードに帰る。

2004/6/9(水) 城下町、うさぎ、パスタ

今日は午前中からバスでマルタの旧市街地ともいえる古い町へ向かう。ホテルでバス停を教えてもらったけど、場所が間違っていて、20分ほど時間を無駄にした。結局、バスに乗るまで1時間も掛かった。

向かったのはMdinaというところ。首都がValletaに移る前は栄えていたという町。今は、教会を中心に城壁で囲まれた地域が観光地となっている。小さな町なので、すぐに見終わってしまった。確かにきれいな町。「地中海文明」という感じだ。お土産にマルタ騎士団の置物を買う。

その後、歩いて隣の町へ行く。そこにあるカタコンベを見学する。教会の地下空間に棺おけが並んでいた。本物かどうかはわからないけど、骸骨が沢山。フレスコ画もあった。“写真やビデオは禁止”と何度もガイドが言っているのに、無視しして撮り続ける観光客が多い。マナーがなってないぞ!西欧人!

2時過ぎにお昼にする。マルタ名物のウサギ料理を食べたかったので、適当にお店に入って、注文する。味と食感は、鶏肉と牛肉の中間くらい。結構、おいしかった。

その後、バスでホテルに帰る。1時間半ほどかかった。沢山バスが走っているのに、目当てのバスが来ないのがマルタの交通問題かも。

夕飯は、昨日食べた同じお店でパスタを頼む。サーモンのパスタ。美味しかったけど、量が多すぎて食べきれず。夕食後はそのまま帰宅して、すぐに寝る。

顔が日に焼けて痛〜い。(>_<)

2004/6/8(火) 一日中海の上、無人島

今日は午前8時過ぎにホテルに向かえが来て、港へ向かう。今日は一日クルーザーでマルタ島を一周する。10人しか客がいなくて、船はゆったり。船が出発したのは9時頃。青い海をどんどん進む。あまりにも気持ちが良くて、船に揺られながら寝てしまった。お昼までずっと寝ていた。途中、船長に“寝てばっかいないで、景色をみなよ。きれいだよ。”と言われる。確かにそうだけど、眠いのは仕方がない。ゆくっりしたいので、そんなことを言われながらも寝続ける。

12時半に無人島に着いた。他にも色んな船が到着している。で、観光客が続けて上陸する。何にもない島だけど、泳いだりは出来る。1時半に小さなボートが来て、洞窟へ連れて行ってくれた。物凄いスピードで走るので、濡れた…。洞窟は、まぁまぁ綺麗だった。

30分ほどで母船に戻ってきて、ブッフェ式のお昼。その後、船から下りて島を歩いてみた。無人島だけど売店がある。アイスを買った。特別高くはなかった。。周辺には沢山の観光客。小さなビーチに人が沢山。

 

3時過ぎに船は出発。他の船も同じ時間に島を出発していた。中には小さな船に溢れるくらい人が乗っていて、まるで難民船のようだった。船は5時過ぎに港に到着。一日かけてマルタ島を一周した。

バスでホテルまで送迎してもらった。夕飯はホテル近くのイタリア料理のレストランで食べる。シーフードスパゲッティを食べる。美味しかった。

今日は、日焼けした。腕と顔が真っ赤。特に鼻が赤くなった。シャワーを浴びたらヒリヒリする。このまま真っ黒に日に焼けてしまうのかも。。

2004/6/7(月) 市内観光、シーフード求めて…

午前中から市内観光をする。とりあえず、歩く。地球の歩き方を持っていたけど、面白そうなものが見えたらそこへ向かって歩いてみた。本に載っている名所を次々と回るのは疲れる。「バカンス」のつもりだから、疲れては意味がない。なので、ボーっと気分のままに歩いた。とっても小さな町なので、歩いていればすぐに町を一周できてしまう感じ。

町並みはとても地中海。クロアチアのイストリア半島にあるプーラという町に雰囲気はとても似ているけど、もっと「地中海らしく」した感じ。リゾート化もしていて、かなり賑わっている。それでも町並みはUNESCOの世界遺産になっていることもあり、雰囲気は維持している。街中が見所と言う感じ。

お昼はシーフードが有名だという港町までバスで向かう。50年代のアメリカのバスを利用しているらしく、とても古い。でも、レトロでイイ感じだった。乗り口にドアがない。だから、降りる人はバスが止まる前に飛び降りている…。30分ほどバスに揺られて目的地に着いた。観光客向けに沢山レストランが軒を連ねていた。適当に店に入って、注文をした。他にイタリア人の団体客がいたのと、今日はマルタの休日で人手が少ないのと、電気が切れているという理由で、料理が出てくるまで3時間も掛かった。お腹が空いて、眠くもなってきた。。でも、がんばって待った。で、出てきた料理は特別“うまい!”というほどでもなかったけど、まぁまぁの味だった。

 

帰宅したのは午後6時。ベッドに入ったら、そのまま寝てしまった…。

2004/6/6(日) マルタ到着!

午前9時にロンドンのホテルを出発して、ヒースロー空港へ向かう。10時20分の搭乗だったけど、40分ほど遅れた。4時間のフライトでマルタへ現地時間の午後3時に到着。空港はとても小さかった。入国のスタンプを見てみると、イギリスの影響を強く受けているようで、EU共通のデザインではなくて、イギリスと全く同じだった。

とりあえず、ホテルへ向かう。移動中、眺めを観ていたら、クロアチアのイストリア半島を思い出した。雰囲気はイストリア半島の田舎に似ている。でも、マルタの方がもっと遺跡が多い。まさに「地中海の文明」という感じ。さすがマルタ。。

ホテルの部屋からは地中海が見える。天気も良くて、青い空と青い海が眩しい。ブラッドフォードとは全く違う(当たり前だけど)。日差しは強くて、とても暖かい。短パンに履き替えて、半袖で過ごせるくらい。

あまりお腹は空いていなかったので、ホテル近くのカフェでカプチーノとケーキを食べて今日は終了。夕焼けが綺麗だった。

今日は、マルタの雰囲気に感動して一日が終わってしまった。明日は中心街へ行こう。。

 

2004/6/5(土) ロンドン着、マンマミーア!、映画

午前7時半に起床。こんなに早く起きたのは久しぶり。朝食を食べて、フラットメイトのPaulと別れの挨拶。寂しいな。。

9時半の電車でBradfordFosterSquareを出発。10時前にLeedsに到着し、すぐにロンドン行きの列車に乗り換える。12時半にロンドンへ到着。ホテルにチェックインして、荷物を置き、町へ行く。

今日の目的はミュージカル「Mamma Mia!」を見ること。以前もこれを見るためにロンドンに来た。「Mamma Mia!」好きです。今日のステージを見ようと思い、チケットショップへ行くけど、£98と言われる。高っ!ボッタクリだ。ネットで買えば、高くて£50。とりあえず、劇場へ行く。当日券があるはず。で、以前行った「Prince Edward Theatre」に向かうも、別の劇場へ「Mamma Mia!」は移っていた。新しく改装された「Prince of Wales Theatre」で当日券を買う。今日は土曜日で、マチネーのステージしかチケットがなかった。で、£48の一番高いチケットしかなく、これを買う。3時からのステージを観た。東京でも観たし、ロンドンでも既に一度観ているけど、やっぱり面白い。。

その後は、中華街でラーメンを食べ、映画を観ることにする。「The Day After Tommorow」がやっていたので、これにする。ブラッドフォードだと、映画の学生料金は£3.50。でも、ロンドンは£8.50だった。高っー。東京と同じじゃん。。£3.50というのはブラッドフォード価格だと知った。そんな地域格差にちょっと動揺。田舎者です、僕。。

映画が終わったのは9時半。そのままホテルへ向かい、近所のコンビニに立ち寄る。ブラッドフォードでいつも買っているペプシとクッキーとチョコマフィンを買ってホテルへ戻った。

明日は、朝から飛行機でマルタへ向かう。ロンドンはやっぱり都会だ。。

2004/6/4(金) 日通現れ荷物回収、テレビ処分、旅行準備

午前中に昨日と同じトラックで、昨日と同じおじさんが荷物を取りに来た。一箱20kgの制限を考えて3箱に分けた。同時に、BAの日本人の正規の学生の友達も日通を利用するかもしれないので、その人のためにも段ボールを受け取る。お昼にその人が寮まで来て受け取っていった。

その後、テレビを処分するため町へ行く。テレビを買った中古屋に行く。そこで買ったことがばれないようにシールなどをはがした。で、“いくらで売りたい?”と聞かれたので、買った値段の“£60!”と答えると、お店の人は苦笑い。“状態にもよるけど、テレビなら£15くらいだよ”と言う。安い…。とりあえず、テレビを見てもらう。リモコン付のSONY製。この店で高めの商品だった。お店の人は意外にも“それなら、£20で買います”と言った。で、“もっと高く売りたいなら、友達に売ったほうが良いよ。自分ならそうするけど”なんて言う。正直者なのか、商売する気がないのか良く分からない発言だったけど、重い思いをして持ってきたので、店の言い値で売った。

その後、帰宅の途中、InternationalOfficeに向かう。IVSP担当のKatが“帰る前にもう一度挨拶に来てね”と言っていたので、オフィスへ行ったら、彼女はインドに旅行中だという。なんだよ…。今年の初めまで留学生を総括していたMarjorieの退職に伴って仕事を引き継いだSueに挨拶した。で、来年度のIVSPの日本人が15人もいるという噂が本当なのかと聞いたら、“そうよ。大きな変化なのよぉ”と言われた。ホントらしい。そりゃあ、大変だ。。KatもSueものんびりしている人だから、仕事が増えて大変かも。。と、そんなことが気になった。その後、大学の売店に寄って、大学グッズを買った。もう買う機会がないような気がした。

帰宅後は部屋の整理と旅行の準備。明日からロンドン経由でマルタ共和国へ行きます。地中海の旧イギリス植民地。最近、拡大EUに加盟したばかり。留学生活の締めくくりに旅行します。しばらくバカンスに行ってきます。明日は、朝早くから電車でロンドンへ向かうから、早く寝ようっと。。

帰国の準備が確実に進んで、やっぱり寂しくなってきた。特別に好きな町だと思っていなかったけど、住めば都。1年も住んでいれば、どんな町でも愛着がわくものだ。正直退屈な町だったけど、その分、勉強に集中出来たのだから、そういう意味ではブラッドフォードは勉強するには良い環境だ。勉強以外にすることがない。これ大切な条件かもしれない。。

夕方にNGOの仕事が回ってきた。英文のチェック。ちょこっと仕事をして終了。そんな感じで今日は終わり。

次のサイトの更新は、ブラッドフォードに戻ってくる11日かな。いざマルタへ!!

2004/6/3(木) 日通現る、パッキング、帰国準備ジワジワ、留学を終えた後…

午前中に日通が来た。段ボール3箱を僕に手渡すために、集配のついでに寄ってくれた。めちゃくちゃデカイ日通のトラックが寮の目の前に停まっていた。。イギリスの会社だと色々と文句を言って、段ボール配るだけのためにこんなことはしてくれないだろう、きっと。。

で、段ボールに荷物を詰める。既に別の段ボールに詰めている。これをまた開けて梱包するのは面倒くさい…。とりあえず、二箱を郵便局へ持って行き重さを量る。14kgと9kg。大雑把だけど、既に梱包した箱を日通の箱に入れる。日通の箱はMサイズを頼んだので、かなりデカイ…。でも、モノが本なので、容積は小さいけど、重さはある。で、日通の箱は3つあって、それぞれ最大20kg。なんとか工夫して、20kg以内になった(と思う)。

部屋の中が箱だらけになって、なんか圧迫感を感じる。梱包したので、早く持って行って欲しい…。明日、集荷に来てくれるというけど、時間が分からない。ひたすら日通を待つのが明日の仕事。。

一番問題なのが今扱っている本と資料。明日持って行ってもらえさえすれば、身近にある荷物は大したことない。でも、パソコン関係の機器と結局数回しか弾かなかったバイオリンがネック。荷物の重さにうるさいKLMをどう説得するかを考えないといけない。とりあえず、「I'm paying full fare!!!」と叫べばなんとかなるという情報を貰った。消費者の権利を主張してみよう。。

銀行に行って、最終的な口座の解約作業を済ませる。口座に残っていた£3のために、火曜日から待っていた。

明日のうちに、テレビやプリンターを処分する予定。色んな人に譲るという提案をしたのに、「タダじゃないの?」という返事ばかり。。なんでみんなタダで貰おうとするんだっ!!安く売るって言っているのに。。で、結局、誰も引き取り手が出てこない。明日、中古ショップに行って売ろうっと。いくらになるんだか。あとは、部屋の内線を切る作業もしなければ。。(携帯電話は使えます)

今日は、フラットメイトに会う毎に写真をキッチンで撮った。明日、国へ戻るドイツ人。明後日、家に帰るイギリス人。みんな物静かで親切な人ばっかりだった。隣のギリシャ人は、今日も相変わらず爆音で音楽を聴いていたけど…。

オーストラリアに居る留学二度目の友達とチャットをした。その人曰く、日本に帰ってから留学のことをあまりペチャクチャしゃべると、日本人には受けが悪いとのこと。聞かれたら答える程度が良いらしい。むしろ、相手の1年間の様子を聞くのがコツらしい。へぇー。良いこと知った。。人によって違うんだろうけど、僕の場合、こっちに来てから何か大きな変化があったわけでもない。英語力も劇的に上がったわけでもないし、「異文化交流」に感動したわけでもない。淡々と生活をしていた感じだから、大きな声で伝えたい何かはないかも。。「留学」に浮かれるほど子供ではないという自負はある(と、自分では思ってるけど…)。 ブラッドフォードに来て、自分の疑問が解決されたこともあったり、新しい疑問が出てきたり、色んな意味での可能性と限界もなんとなく分かった。むしろ、今はそういう新しい「課題」に取り組みたい気分でもある。ブラッドフォードに来て満足できたこともあるし、そうでないものもある。現状を満足するような生活はつまらない。だから、もっと貪欲に何事も取り組みたい。そういう気持ちになれたことが、ブラッドフォードでの成果かもしれないと思う。留学の最終的な総括は、日本に帰ってからにしよう。。

2004/6/2(水) 日本通運、CCRエッセー返却、パブ+カレー、増える日本人

午前中にマンチェスターの日本通運(日通)に電話する。日本人学生向きの安い国際便サービス担当の人と話す。一般的に荷物を集荷する日の10日前までに申し込まないといけないけど、わがままを言って、明日梱包用の段ボールを届けてもらい、明後日に集荷してくれることになった。4日集荷という最大の目標を実現できた。通常料金に£10上乗せになったけど、それでも安い。とても親切な日通だった。

その後、平和学科のオフィスへ行きCCRのエッセーの添削を返却してもらう。点数は52(%)だった。Lower-secondの「平均(average)」だった。でも、そんなに良い点数じゃなかったので、結構ショック。。講評はこんな感じ。

「This is a reasonable attempt at the question. You highlight a number of relevant barriers to communication and offer some suggestions for how these might be overcome. The essay includes relevant bibliography. However, the essay is nor properly *** and the analysis is rather weak throughout. Some things to work on.」

エッセーのテーマが「紛争」とは少し離れ、個人レベルでの異文化コミュニケーションについてだった。それまで学んだことのなかった分野だったけど、興味が沸いてきて、張り切って書いてみた。個人レベルでの異文化コミュニケーションにおける「心構え」的な内容になったが、それを根拠付ける論理が弱かったかもしれない。それは書いているときに気になった点でもある。気になったけど、それを突き詰めなかったのは、自分の怠慢。4000単語のCRISエッセーを書き終えて、2000単語のCCRを少し見くびっていたかもしれない。具体的にエッセーのどの部分が論理として弱いのかの指摘がないけど、きっとそんな点が問題かも。とりあえずパスはしたので良いけど、やはり60以上は欲しかった。前期と同様、50台の評価の科目が一つ出てしまった。軍備軍縮とナショナリズムの試験の成績がちょっと気になる。60以上取れていることを祈るばかり。試験前にエッセーを受け取りに行かなくて良かった。今回の成績を試験前に知っていたら、精神的に良くなかったかも。。

エッセーと試験。エッセーの方がそれを完成させるまでのプロセスが僕には楽しい。だから、エッセーの方が好きだ。エッセーの方が点数を取りやすいように思ったけど、実際はそうではないかもしれない。書き上げるのにじっくり時間があるのだから、それだけ評価の基準は高くなるのかも。試験の方は、2年生の試験であれば、基本事項をきちんと押さえて、自分で読んだ文献の情報を追加して、それをちゃんと論理的に説明できれば基本的に十分なのかもしれない。どちらかというと、試験の方が評価の基準はエッセーよりも相対的に低いかもしれない。

僕の高校の先生がこんなことを言っていた。「試験がないと なんで勉強しているかわからない。 せっかくつまらない話を聞いて どうでもいいことを覚えてきたのだ。 それをどこかで披露してみないとおさまらない。 その程度のものである。その程度のものでもないと 間が持たないのが世の中。」もちろん、大学と高校は違うけど、エッセーと違うのは、「試験」が基本的にこんな性質のものだからかもしれない。

くどいけど、正直、50台の成績は恥ずかしい点数だ。出来るなら、書き直したいくらい。何事もマジメに、細部まで拘らないと良い仕事は出来ないものだと思った。学問は甘くないな。

帰宅後、冬物の洋服を圧縮袋などに入れて、スーツケースに詰める。それだけでスーツケースが一杯になった…。他のモノをどうしようか…。衣装持ちと言えば聞こえが良いけど、普段はおしゃれなんてする必要ないからそんなに服はいらない。留学生活なんて、ホントに質素なんだし。。

夜からは、キャンパス近くのパブで日本人の学生の集まりに参加。BAで卒業する人、MAで修士論文を書き始める人、色んな人がいた。きっと、全員で集まれるのは今日が最後なので、貴重な機会だ。ほとんどがMAの人だから、進路のことでは色々と参考になることばかり。世間で思われているほど、ブラッドフォードを卒業したからといって、いわゆる「国際協力系」の仕事に簡単に就職できるわけではないらしい。既に何かを売り込める能力を持っている人がブラッドフォードに来て、卒業後にそういう分野に就職(再就職だったりする)が多いのかも。11時まで飲んだり、話したりして、その後カレー屋へ。ブラッドフォードでは、お酒を飲んだ後にカレーやケバブを食べたりする。日本で言うラーメンみたいなもの。でも、ブラッドフォードでカレー屋に入るのは、今回で3回目。他の学生と比べると、珍しがられるくらい少ない回数。辛いのがダメなんだ…。

うわさによると、来年度(2004/5)のIVSPの日本人の数が15人だという。他にも半年間カレッジの英語コースに通って、前期だけの授業を受けるプログラムの人も5人ほどいる。ということは、全部で20人も日本人がいるということになる。MAには日本人の学生は多いけど、BAでこの数はちょっとスゴイ…。正規の学生の一学年の人数が60人くらいだから、そこに日本人20人って…。今年度は、IVSPは3人だったのに。。約3年前に僕がブラッドフォードで勉強したいと思い始めたときは、ブラッドフォードなんてもちろん、平和学すら知らない人が多かった。着実にその知名度が日本でも浸透してきてる感じがする。それにしても、急激な増加だとは思う。イラク戦争とかが影響しているのか、それとも日本事務局の活躍のおかげなのだろうか。。ブラッドフォードで学ぶ人が増えることは、基本的に良い傾向ではあると思う。何か情報交換ネットワークがあったら面白いかも。他の大学には、日本人会があるらしいけど、ブラッドフォードにはない。ある意味、ピースウィンズジャパンがブラッドフォード大学の日本人同窓会かも。。

イギリスの大学には良くあることだけど、日本に職員が出向いて「営業」をしたりする。ブラッドフォードも今年は留学決定者向けに大学の職員が事前のオリエンテーションをしているらしい。そういうことは、現地で他の国の留学生を含めて行った方が平等というか、親切だと思うのだけど…。調べてみたら、EU圏外の外国人のBAでの授業料が£1000も値上がりしてる…(EU人の授業料は変化してないような気がする…)。日本事務局もあるくらいだから、財政にそんなに余裕があるのかと思った(根拠無いけど)。自分勝手だけど、寮の家賃も値上がりしてるし、今年度来て良かったぁー、と思った。イギリスに留学するなら、早くした方がいいかも。授業料はどんどん値上がりしていく一方。学費値上げ法案は、ブラッドフォードの学生(EU人)には全く影響がないみたい。あんなにしょぼいストライキが成功したのか?!

そんな感じで午前1時に帰宅。

2004/6/1(火) ナショナリズム試験、日本代表vイングランド代表@マンチェスター

今日は最後の試験のナショナリズム。試験は午後4時から。午前中に寮を出て図書館に向かう。

まずは、銀行へ向かう。口座を閉じるため。作業には営業日3日掛かるので、今日申し込めば木曜日に終了する。

その後、図書館へ向かう。自分で書いたマインドマップを眺める。1時間ほどそんな作業をして、お昼に食堂へ向かう。食堂でコンビーフとパスタの料理を頼んだけど、不味かった…。お腹は空いていたけど、全部食べれず…。お金の無駄だった…。

その後再び図書館へ行きまた事前準備。眠くなってきたので、カフェへ行き一服する。そんなことをしていて試験時間が迫ってきた。試験会場へ向かう。

試験は時間通りに始まった。途中、教室の外で騒いでいる学生がいて、教授のTomGallagharが腹を立てながら注意していた。

試験問題を見ると、授業のトピックがほとんど網羅されている感じだった。僕は以下の問題を選ぶ。

  1. How old is nationalism?
  2. What uses does the Chinese communist regime make of nationalism?
  3. Why is nationalism generally regarded as a male phenomenon?

1.の問題は、ナショナリズムの起源を問うていると思ったので、Modernism と Primordialismの二つの観点からの説明。2.は中国共産党のナショナリズムの利用に関して。3.は、ModernismとPrimordialismの双方を批判的に検討して両者に共通する「男性中心的傾向」を指摘した。

他の設問を答えられるほど自信はなかったけど、最低限の準備で対応できる内容だった。これで試験は終了。ブラッドフォードでの勉強も終わり。

6時に試験が終わって、急いで友達と駅へ向かう。8時からマンチェスターで日本代表対イングランド代表のサッカーの親善試合を観るため。6時半の電車にはなんとか間に合った。今日初めて会ったJoeというピースの一年生の男の子と電車の中でずっと話していた。日本語を勉強し始めたらしく、日本の映画や本にとても詳しい。僕も見たことの無い映画や本を説明してくれた。“絶対に観ないとダメだよ”という。彼は日本映画の素晴らしさを語っていた。行きも帰りも彼とずっと話していた。日本語を勉強しているということなので少し教えてあげたり、僕の英語の講評もしてもらった。彼によると、僕の英語は「Regular English」らしい(よかったぁー、ヨークシャーの訛りがなくて!)。とても発音がハッキリしていて良いらしい。日本人の英語ではなくて、どちらかというスペイン人の英語に似ているらしい(なんじゃそりゃー!)。電車の中で新聞の「恋人・友達募集欄」を見ながら、ドイツ人の留学生と一緒に色んな形容詞を学ぶ。自分を売り込むためにみんな色んな表現を使って自分をアピールしている。「自分は王子様のような...」と説明している人もいる。そんな感じで行きと帰りの電車の中で時間を過ごした。

サッカーの方は、なんとか試合が始まった直後に着くことが出来た。ほとんどイングランドファンのスタジアムだった。スポーツは詳しくないので、よく分からないけど、結果はドローだったので日本が検討したのではないかと思う。試合を観ていてベッカムがイングランドファンの中ではやっぱり人気があるのだと思った。ベッカムがボールを蹴っているだけでみんなは興奮している。なんというか、ベッカムなら何でも良いみたいな感じ。日本で言う長嶋茂雄みたなものだろう。一種の個人崇拝みたいな。

それにしても酔っ払いが多すぎるっ!試合が始まる前から一杯も二杯も引っ掛けているような人が多くて、既にかなり盛り上がっている。そんなイングランドのナショナリズムとアルコールが手伝ってか、試合中にピッチに乱入するファンが発生。つまみ出されていた。“もし日本が勝っちゃったらどうしよう”なんて余計なことを考えた。みんなフーリガン予備軍みたいに見えたのは僕だけだろか…。でも、引き分けだったので「親善」試合で留まってよかった。。

  

ブラッドフォードに着いたのは夜の12時半。帰宅したのは1時だった。こんな感じでブラッドフォードでの生活が終わった。あとは、帰国準備をして、旅行に行き、日本に帰るだけ。今になって、帰るのが少し寂しくなってきたような気がする。10ヶ月なんてとても早い。

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