海難
海難は、洋上における、船舶の事故である。
難破とも言う。
戦闘によるものは、本来は海難とはいわないが、結果的に船舶、人員等に損害が及ぶため、海難に含まれることがある。
海難事故の原因
・気象・海象によるもの
海洋という自然界にもまれるため、多くの海難はこれによる。
操船や、造船技術等により、回避できる要素も多い。
・船員の操船技術によるもの
操縦のミスによるもの。
・船員の操船判断によるもの
気象・海象に対する不注意、天候の読み違えによるもの。
海洋法規や慣行の解釈ミス・誤解によるもの。
見張り不十分による他船・桟橋・氷山との接触・衝突など。
・船舶の堪航能力によるもの
設計ミス、材質の強度不足、構造欠陥などによるもの。
小規模な船体損傷から船体折損などの重大なものまで、さまざまなものがある。
当初予定していたものとは別の用途に転用されるなどした際に、問題点が顕在化するケースなどもある(運用の問題とも関係する)。
・船舶の搭載機関・搭載機器の性能・整備・運用によるもの
故障や火災など施設の管理問題に由来するもの。老朽化に由来するもの。積載重量オーバー・荷崩れなど運用管理に由来するもの。
・故意によるもの
戦争・海賊行為・船内での騒擾などによるもの。
海難事故の様式
・沈没
船体が水面下に沈んでしまうもの。潜水艦の浮上不能も含む。
浅海で沈没した場合、船の上部構造物が海面上に出ていることがあるが、座礁とは異なる。
・転覆
船体がなんらかの理由で横転、上下逆になるもの。横倒しになるとたいてい沈没するが、さかさまになってしまうと案外沈まない。
・座礁・触底・乗揚げ
船底が海底・川底と接触し操船が不能になるもの。
船の多くは、液体の水の上に浮くことで全体で分散して重量を負担する設計となっているため、固体の海底などに接触しそこに重量が集中すると、容易に船体断裂などの損壊を引き起こす。
潮の満ち引きなどの影響で結果として同等になる場合はあるが、座礁・触底は「通常の喫水で航行中に浅くなっているところに乗り上げる」ものであり、沈没とは異なる。
・機関故障・推進器故障・かじ故障などによる漂流
なんらかの理由で航行できなくなり、海上を漂うもの。
・落水
船上から乗組員・乗客・積荷が転落するもの。
・火災
・浸水
沈没へのプロセス
船体の損傷等により浸水し、予備浮力が失われると沈没にいたる。
一般に、隔壁によって浸水区画は限定されるが、隔壁による水密性が不十分だと、浸水が拡大する。
また、船体の破壊が大きいと、船体が折れることもある。
海難事故の影響
引き起こされる結果としては、以下のようなものがある。
・人的損害
死亡・怪我など。
・物的損害
船体の喪失・荷物の流失・港湾施設の損壊など。
・自然損害
燃料・輸送物の漏洩・散乱による海洋汚染など。
オイルタンカーの海難事故の場合には特に大きな被害の発生が報告されている。
そのため、二重底化が進められている。
海難事故の複合的様態
海難事故は、個々に様態が異なり、またさまざまな複合的要素を持つ。
たとえば「荒天による操船不能→座礁→船体断裂→燃料流出」など。
また、関係者が生還しないケースも少なくなく、原因の解析が困難なことも珍しくない。
海難事故の法的扱い
海難事故は、船舶という陸上での経験があまり通用しない交通機関にかかわるものであること、独特の法的規制や慣習があることなどに鑑み、法的に特殊な扱いがなされる場合がある。
日本における海難事故の法的扱い
日本では、一般に事故をめぐる責任の追及については民事上の責任や刑事上の責任が問題となり、海難事故に関しても同様であるが、海難事故の場合には特に将来的な海難の防止という観点から、運輸安全委員会による海難事故の究明がなされ、故意・過失によって海難を発生させた船員に対しては海難審判所の海難審判による懲戒がなされる。
なお、海難事故の究明や海難審判について以前は海難審判庁が担っていたが、2008年10月の法改正により海難審判庁は廃止され現行の体制に移行した。
海難事故の損害賠償枠組み
一般的な海難事故の損害賠償については、通常の損害賠償保険によって扱われる。
しかしながら海難事故の場合、特にオイルタンカーの座礁事故などの際には、その汚染規模が大きく、被害額・除染費用などが巨額に上ることが少なくなく、補償の実効性には疑問が持たれるケースも少なからず存在した。
そのため、1967年のトリー・キャニオン号事故を契機として1969年には「油による汚染損害についての民事責任に関する国際条約」が作られ、以下いくたびか改定されている。
この条約では、タンカー事故などについて、ほとんど無過失責任であるといえるレベルの損害賠償責任を負わせている。
また、現実的な被害救済のために、一定量以上の荷主に拠出を義務付けるなどして国際基金を整備し、確実に補償がなされるような枠組みを作っている。
日本国内では、この条約に基づいて船舶油濁損害賠償保障法が制定されている。
また、保険未加入船舶については入港を拒否するといった方法で、補償が期待できないような被害の発生を防止している。
主な海難事故
- 1707年(宝永4年)10月22日: 英国シリー諸島沖で英国海軍艦隊4隻が座礁。2000人を超える犠牲者を出した。
- 1865年(慶応元年)4月: アメリカ合衆国のミシシッピ川で就航していた貨客船のサルタナ号が過積載のためボイラー爆発、火災を起こし沈没。少なくとも1450人が死亡。
- 1875年(明治8年)12月6日: 05: 00、客船ドイッチュラントがテムズ川河口でブリザードに遭遇、砂州に座礁。翌日に救助が来たが、乗客・乗務員100名以上が死亡する惨事となった。この事故は社会に大きな衝撃を与え、「ドイッチュラントの遭難」という詩が作られた。
- 1877年(明治10年)11月19日: 北海道瀬棚海岸沖にてロシア軍艦アレウト号がおりからの暴風に煽られ座礁。乗組員60人全員が地元住民により救助されるも、翌1878年(明治11年)4月20日迎えに来た軍艦エルマック号へアレウト号乗組員がボートで向かう途中高波により転覆、12人が犠牲になった。
- 1878年(明治11年)12月: 和歌山県太地における「大セミ流れ」。荒天を突いて鯨組が出漁したことから集団遭難事故を引き起こし、110名余が死亡した。
- 1886年(明治19年)10月24日: 英国商船ノルマントン号が、和歌山県潮岬沖で沈没、日本人乗客25人ほか、中国人、インド人乗組員12人が死亡。イギリス人船員は全員生存し、当時の日本で社会問題になった。(ノルマントン号事件)
- 1886年(明治19年)12月: 日本海軍の巡洋艦畝傍がフランスから日本への回航中、シンガポールを発ったのを最後に消息を絶つ。荒天により沈没と思われるが原因や状況などは現在に至るまで不明。フランス人乗組員や日本海軍の将兵など計90人が行方不明となった。
- 1887年(明治20年)5月19日: 客船ブリタニックが霧のためセルティックと衝突。激しく損傷したが沈没の恐れがなかったため援助にきた船とニューヨーク港に移動した。
- 1890年(明治23年)9月16日: 日本和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦エルトゥールル号が座礁沈没。乗員約600人中、地元の漁民らによって69人が救出されたが、587名が死亡または行方不明となった。(エルトゥールル号遭難事件)
- 1904年(明治37年)6月15日: ニューヨークにて遊覧船「ジェネラル・スローカム」がイースト川で火災。犠牲者1031人。
- 1909年(明治42年)7月26日: イギリス船籍貨客船ワラタ号が南アフリカ・ダーバンから出航後、消息を絶つ。サイクロンに遭遇、転覆沈没したと推定される。乗員乗客211名全員行方不明。
- 1910年(明治43年)4月15日: 日本海軍の第六潜水艇が、広島湾でガソリン潜航実験の訓練中に沈没。艇長佐久間勉大尉以下乗員14名全員殉職。後日引き上げられ、最後まで規律を保って配置を守っていた乗組員の遺体と、佐久間が絶命の瞬間まで書き綴った遺書が発見された。その様子は国内では教科書や軍歌に取り上げられるほどの社会現象となり、アメリカ・イギリスなどにおいても大きな話題となった。
- 1912年(大正元年)4月14日: イギリス船籍客船タイタニック号が処女航海中氷山に衝突し、沈没。1517人が死亡。
- 1914年(大正3年)5月29日: カナダ船籍客船「エンプレス・オブ・アイルランド号」(14191t)が濃霧のセントローレンス川でノルウェー船籍貨物船「ストールスタッド号」(6028t)と衝突し沈没。1024人が死亡、行方不明。
- 1915年(大正4年)5月7日: 英国船籍客船「ルシタニア号」がUボートの雷撃で沈没。米国人を含む1198人が死亡。(ルシタニア号事件)
- 1916年(大正5年)11月21日: イギリス軍に病院船として徴用された客船、ブリタニックがドイツ軍の機雷に触れ沈没。死者30名。
- 1917年(大正6年)12月6日: カナダのハリファックス港で軍用火薬を積んだ船と貨物船が衝突し、大爆発を起こした。両船だけでなく、付近にいた船、ハリファックス市にも重大な被害をもたらす大災害となった。(ハリファックス大爆発)
- 1922年(大正11年)8月26日: 、カムチャッカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオゼルナヤ沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁転覆した。15人は救助されたが、残りの327人は死亡した。
- 1924年(大正13年)12月11日: 京都府舞鶴港に向かっていた海軍の工作艦「関東」が、吹雪の気象条件のなか位置を誤認もしくは確認できないまま航路を逸脱。福井県下糠浦海岸の二ッ栗岩に座礁し沈没、乗組員と便乗者のあわせて99名が死亡。
- 1926年(昭和元年)12月: 漁船「良栄丸」(19トン)が本州東方海上で荒天のため機関を破損して航行不能となり、漂流。乗組員全滅後、27年10月末に北アメリカ西岸に漂着した。
- 1927年(昭和2年)8月24日: 鳥取県美保関沖で夜間演習中の軽巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突し「蕨」が沈没、軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」も衝突し、将兵119名が殉職した。「神通」艦長水城圭次大佐は軍法会議にかけられ、判決の前日に自決した。(美保関事件)
- 1933年(昭和8年)1月24日: 愛媛県南宇和郡内海村の沖にて南宇和郡深浦港行の連絡船第3大和丸(45t、乗員乗客24名乗)が沈没。生存は乗組員1名のみで残りの24人は死亡した。
- 1934年(昭和9年)3月12日: 日本海軍の水雷艇「友鶴」が演習中に転覆。乗員100名が死亡。(友鶴事件)
- 1935年(昭和10年)9月26日: 日本海軍第四艦隊が演習中、台風に遭遇。54名が死亡。(第四艦隊事件)
- 1939年(昭和14年)12月12日: 北海道猿払村のオホーツク海にてソ連貨客船インディギルカ号が座礁沈没、700名以上が死亡。
- 1941年(昭和16年)1月20日、東京湾にて季節風に伴う突風が吹き荒れ数多くの小型漁船が次々と遭難する事態となった。その被害は翌21日までの間に死者20名、行方不明7名にも及んだ。
- 1941年(昭和16年)4月6日、琵琶湖に面する滋賀県大津市に合宿していた金沢四高(現在の金沢大学)の漕艇部員8名と他の3名(合計11名)が強風の中を今津町から琵琶湖へボートを出艇させ遭難し全員が死亡した。遭難の原因は強風で転覆したものと推測されるが全員が死亡したため詳細は不明。なお、この事故は後日、その悲劇を悼む歌として琵琶湖哀歌(歌は東海林太郎と小笠原美都子)としてレコード発売された事により全国的に有名な事件となった(琵琶湖遭難事故)。
- 1942年(昭和17年)2月9日、ニューヨーク港で軍の徴用に向けて改装中だったノルマンディーが火災を起こし、消火時の放水で浸水したことにより転覆。船体が巨大であったこと、狭い埠頭で転覆したことから上部構造物を全て撤去して引き上げたが、結局第二次世界大戦後に解体された。
- 1942年(昭和17年)5月12日: 東亜海運客船長崎丸上海から長崎港外に到着し、附近の哨戒艦と連絡のため、指定航路を僅かに外れた時、日本海軍の機雷に触れ沈没。死者13名、行方不明者26名。生き延びてしまった菅源三郎船長の切腹と言う壮絶な結末で有名な海難事故。
- 1943年(昭和18年)7月15日: 関西汽船の貨客船、浦戸丸が愛媛県松山市波妻ノ鼻沖合で、宮地汽船の貨物船聖山丸と衝突して沈没。死者231名。
- 1944年(昭和19年)6月13日: 伊予灘で試験潜行中の伊号第33潜水艦が浸水し沈没、死者102名。8年後に引き上げられた。
- 1944年(昭和19年)12月: アメリカ海軍第38任務部隊がフィリピン沖で台風に遭遇し、駆逐艦3隻沈没など大きな損害を出した(コブラ台風)。
- 1945年(昭和20年)3月6日 青森港内にて青函連絡船の第五青函丸が折からの暴風に煽られ防波堤に接触し浸水、沈没した。死者・行方不明者82名。戦時設計のため二重船底が廃止された上に外板が薄く設計されていたこと、重心が高かったことなどが沈没の要因としてあげられる。
- 1948年(昭和23年)1月28日: 阪神 - 多度津航路の女王丸が瀬戸内海牛窓沖で機雷に触れ沈没。死者行方不明183人(女王丸事件)。
- 1943年(昭和18年)3月19日: 大阪商船貨客船「高千穂丸」、米潜水艦の雷撃により沈没。乗客844名が死亡。
- 1944年(昭和19年)8月22日: 児童疎開船「対馬丸」米潜水艦の雷撃により沈没。疎開児童708名を含む1484名が死亡。
- 1944年(昭和19年)9月18日: 捕虜交換船「順陽丸」英潜水艦の雷撃により沈没。連合国軍の捕虜など約5620名が死亡。
- 1945年(昭和20年)1月30日: バルト海にてソ連潜水艦の雷撃によりドイツ客船「ヴィルヘルム・グストロフ号」沈没。乗船していた難民など9331名が死亡。
- 1945年(昭和20年)2月10日: ドイツ客船「シュトイベン号」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など4500名が死亡。
- 1945年(昭和20年)4月1日: 阿波丸事件。安全航行を保障されていた緑十字船阿波丸が台湾海峡にて米潜水艦により撃沈される。乗客2000名以上が死亡。阿波丸は協定に違反して戦略物資を積み込んでいたことが明らかになっている。
- 1945年(昭和20年)4月16日: ドイツ客船「ゴヤ」、ソ連潜水艦の雷撃により沈没。難民など6666名が死亡。
- 1945年(昭和20年)5月3日: ドイツ客船「カップ・アルコナ」、英空軍の空襲により沈没。5594名が死亡。強制収容所の収容者が多く犠牲となった。
- 1945年(昭和20年)7月29日: 米重巡洋艦「インディアナポリス」、日本潜水艦伊58の雷撃により沈没。米海軍は同艦沈没の事実を人為的ミスによって丸四日間気付かず、乗員1196人中、880名が死亡した。同艦は広島へ投下された原子爆弾の輸送任務を終えた直後だった。生き残ったマクヴェイ艦長は軍法会議にかけられ有罪となり、1968年に自殺している。この事件は海軍の真相隠蔽疑惑と、マクヴェイ艦長の名誉回復を巡って今も論争が続いている。
- 1945年(昭和20年)8月22日: 樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」・「第二新興丸」・「泰東丸」が停船命令に従わず、ソ連潜水艦(L-12、L-19)の雷撃・砲撃を受け小笠原丸と泰東丸が沈没、第二新興丸が大破した。1700名以上が死亡。犠牲者の大半は民間人だったという。なお、第二新興丸の反撃により、ソ連潜水艦(L-19)も一隻が沈没している。詳しくは三船殉難事件を参照。
- 1950年(昭和25年)3月26日: 静岡県伊東市の盛徳丸(30トン)が伊豆大島の沖合いで沈没。乗組員32名が死亡。
- 1950年(昭和25年)7月30日: 広島県佐伯郡にある長島の近くで漁船が操業していたところ付近に浮遊していた大型機雷が爆発。これにより漁船4隻が大破し2隻が損壊した。犠牲者46名。
- 1950年(昭和25年)9月19日: 北海道厚岸郡の霧多布沖で捕鯨船が救難信号を出した後に行方不明となった。21名が乗り組んでいたが生存者は発見されなかった。
- 1950年(昭和25年)9月21日: 三重県北輪内村の漁船が岩手県三陸海岸の?ヶ崎(とどがさき)付近で行方不明。48名が死亡。
- 1950年(昭和25年)11月9日: 愛媛県の今治市から大阪へ向かう定期旅客船(第2高島丸161トン)が沈没。16名が死亡。
- 1950年(昭和25年)12月10日: 長崎から名古屋へ向かっていた豊丸(725トン)がSOSを発信した後に消息不明となった。その後救命ボートに乗っていた5名が助かったが26名が犠牲となった。
- 1950年(昭和25年)12月18日: 青森県の深浦沖にて東邦海運の貨物船(1,684トン)が座礁したあと沈没。乗組員40名が死亡。
- 1951年(昭和26年)1月22日: 横浜市の大岡川に浮かぶ日雇い労務者用の水上ホテルが横転。7名が犠牲となった。定員250名のところに432名が乗り込みバランスが崩れたのが原因と思われた。
- 1951年(昭和26年)2月6日: 佐賀県東松浦郡の波戸岬の沖で貨物船(880トン)が座礁したあと沈没。33名が死亡。
- 1951年(昭和26年)2月14日〜2月15日: 東京湾および関東布巾の太平洋で吹雪まじりの嵐となり漁船などの連続遭難事件が発生した。14日と15日の両日だけで小型漁船を中心に沈没43隻、流失46隻、損壊15隻、行方不明9隻、座礁6隻をだす事態となってしまった。
- 1952年(昭和27年)9月24日: 当時活発な活動を繰り返していた海底火山・明神礁の調査に向かった海上保安庁の測量船「第五海洋丸」が、明神礁付近で調査を行っている際に突如発生した海底火山噴火に巻き込まれ、沈没。船長以下乗組員22人と学術調査員9名の31人全員が死亡した。
- 1954年(昭和29年)1月28日〜1月30日: 北海道で荒天のため小型漁船などの連続遭難事件が発生した。3日間に沈没17隻、大破11隻、中破29隻、小破21隻、座礁39隻を出し、死者・行方不明者の合計は37名にも及ぶ事態となってしまった。
- 1952年(昭和27年)10月19日: 静岡県の漁船・福徳丸(64トン)が宮城県塩釜沖の太平洋で沈没。21名が犠牲。
- 1952年(昭和27年)10月22日: 北海道の稚内沖で日進丸が定置網の引き上げに出航したきり行方不明になった。31名が乗り組んでいたが強風により沈没したものと思われる。
- 1952年(昭和27年)10月26日: 千葉県天津町の漁船が岩手県の釜石沖で沈没。1名が救助されたが18名が行方不明。
- 1953年(昭和28年)2月15日: 米国の貨物船と日本の水産指導船が静岡県白浜沖の太平洋で衝突。これにより水産始動船が沈没し11名が死亡した。
- 1954年(昭和29年)1月30日: 北海道沿岸各地にて低気圧による猛吹雪の影響で漁船が沈没するなどした。沈没17隻、大破11隻、中破21隻、座礁39隻、などの被害が出た。
- 1954年(昭和29年)3月1日: マグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で被曝。乗員が死の灰を浴び、1名死亡。
- 1954年(昭和29年)9月26日: 青函連絡船洞爺丸、函館沖で台風15号(洞爺丸台風)の暴風により転覆・沈没。乗員乗客1155名が死亡(洞爺丸事故)。 洞爺丸台風では、同様に函館沖で停泊していた北見丸(乗員70名死亡)・十勝丸(乗員59名死亡)が転覆、日高丸(乗員56名死亡)が浸水、第十一青函丸(乗員90名死亡)が船体破断で沈没。あわせて1430人が犠牲となっている。
- 1954年(昭和29年)10月8日神奈川県与瀬町(現・相模原市)にある相模湖で遊覧船・内郷丸が定員を大幅に超過した状態で運行し沈没、死者22名(内郷丸遭難事件)。
- 1955年(昭和30年)5月11日: いずれも宇高連絡船である紫雲丸(貨客船)と第3宇高丸(貨物船)が濃霧の中で衝突し、紫雲丸が沈没。死者166人、負傷者122人。これも国鉄戦後五大事故の一つに数えられる(紫雲丸事故)。
- 1956年(昭和31年)7月25日: イタリア客船「アンドレア・ドリア号」(29083t)と、スウェーデン客船「ストックホルム号」(25000t)が濃霧の中で双方ともレーダーを過信し、20ノットの高速で航行中に北大西洋・ナンタケット島沖で衝突。アンドレア・ドリア号は沈没し、双方で55人死亡。
- 1957年(昭和32年)4月12日: 瀬戸内海の定期客船であった第5北川丸が、定員の3倍超の乗客を乗せ生口島瀬戸田港から尾道港に向け出航したところ、途中の暗礁に座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す惨事になった。海難審判では船長の職務上の過失に加え、運航会社による管理が不適当であったとされた(第五北川丸沈没事故)。
- 1958年(昭和33年)1月26日: 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が和歌山市に向け徳島県小松島市から出航したところ、悪天候に遭遇したため紀伊水道沼島沖で沈没。乗員乗客167名全員が死亡・行方不明になった。沈没までの詳細な過程は生存者がいないため不明である(南海丸遭難事故)。
- 1960年(昭和35年)6月4日: 津軽海峡東方で対潜訓練中の海上自衛隊護衛艦の「あけぼの」と「いなづま」が、操船ミスで衝突し2人が死亡、2人が負傷した。なお翌日には修理中の「いなづま」で室内での清掃作業に用いたガソリンへの引火による爆発事故が発生し、3人が死亡した。
- 1962年(昭和37年)11月18日: 神奈川県川崎市の京浜運河を航行中のタンカー「第一宗像丸」(総トン数1,972t)が、「タラルド・ブロビーグ」(同21,634t)に衝突。「第一宗像丸」の積荷のガソリンが炎上し、付近を航行していた太平丸(同89t)と宝栄丸(同62t)も巻き込まれて炎上、4隻で41人が死亡。事故原因は第一宗像丸の船長とタラルド・ブロビーグの水先人が見張りを疎かにしていたためとされたが、狭い運河に揮発性の高い積荷を満載した船舶が過密航行していることも原因のひとつであった。
- 1963年(昭和38年)2月26日: 午前1時過ぎに兵庫県神戸市和田岬沖で貨物船「りっちもんど丸」(総トン数9,547t)と鳴門・阪神間の定期旅客船「ときわ丸」(総トン数238トン)が衝突。「ときわ丸」は衝撃で沈没し乗員7人と乗客40人が死亡し3人が負傷した。事故原因は「りっちもんど丸」船長の職務上の過失が主とされたが、「ときわ丸」側にも過失があったと認定された。
- 1963年(昭和38年)3月30日: 東京湾内で海上自衛隊護衛艦「てるづき」の右舷に貨物船「賀茂春丸」の船首が衝突し、自衛官5人が死亡。
- 1963年(昭和38年)6月6日: フィリピンからラワン材を運搬していた洞南丸(4815t)が和歌山県潮岬沖で遭難。乗員33人が死亡・行方不明。荷崩れにより転覆の危険があるため総員退避すると通信があったことから、荷崩れで横倒しになり沈没したとみられている。また洞南丸が戦時標準型貨物船(1945年(昭和20年)5月29日に三菱造船長崎造船所で進水)であったことも事故原因の一因であるとの指摘が、事故直後の6月12日の衆議院運輸委員会でなされた。
- 1963年(昭和38年)7月27日: 広島県福山市で製鉄所建設現場に通勤する作業員57人が乗船したタグボート「第13湊川丸」(6,150Kg)が転覆沈没し10人が死亡。原因は定員の5倍が乗っていたことによる重量超過であった。
- 1963年(昭和38年)8月17日: 沖縄本島と久米島を結ぶ「みどり丸」が横波を受けて転覆・沈没。死者・行方不明112人。
- 1965年(昭和40年)5月23日: 北海道の室蘭港にてノルウェー船籍の油槽船ヘイムバード号(ハイムバルト号)35,355トンが桟橋に衝突し漏れた原油に引火して爆発、乗組員10名が死亡した。
- 1965年(昭和40年)8月5日: 日本のタンカー海藏丸がサウジアラビアラスタヌラで原油の積載作業中に爆発炎上し乗組員や陸上作業員など14名が死亡。
- 1965年(昭和40年)10月7日: マリアナ諸島アグリガン島の島陰で台風29号を避けていた日本のかつお・まぐろ漁船群が、台風の予想外の針路変更と急発達のため暴風圏内に巻き込まれ、6隻沈没、1隻が陸に打ち上げられて大破沈没し、死亡及び行方不明者209人の大量遭難となった(マリアナ海難)。
- 1969年(昭和44年)1月5日: 野島崎南東沖合を航行中のばら積貨物船「ぼりばあ丸」(総トン数33,768t)の船首部分が突然折損脱落して航行不能となり、約1時間後に沈没。長沢吉三郎船長ほか乗組員30人が行方不明となった。翌1970年(昭和45年)2月9日にも野島崎東方沖合で鉱石船「かりふおるにあ丸(総トン数34,001t)」遭難事件(船体破損により浸水沈没。船長ほか4名死亡)が発生し、どちらも就役して5年も経たない(ぼりばあ丸: 3年3ヶ月、かりふおるにあ丸: 4年4ヶ月)新鋭大型貨物船が相次いで船体破損で沈没したことは、当時大型船建造を推し進めていた日本の造船業界に大きな衝撃を与えた。また、かりふおるにあ丸の住村博船長(当時45歳)が船長としての責任を取るべく船と運命を共にするとして、駆けつけた貨物船の救助を拒否、ブリッジより乗組員へ別れを告げ船体とともに海へ沈んだことが、大きな波紋を広げた。それより半月ほど前の1月17日にも北海道奥尻島沖を航行中の石炭運搬船「波島丸」(総トン数3,913t)が時化のために転覆、18人が死亡したが、この時も波島丸の上床力船長(当時60歳)が船と運命を共にしている。当時の船員法第12条に「船長の最後去船義務」という項目があり、「旅客・海員その他船内にある者を去らせた後でなければ、自己の指揮する船舶を去ってはならない」との条文があったが、これが「船長に殉職精神を植え付けているのではないか」との批判が巻き起こり、国会でも大きな論争となった。同年5月15日に船員法が一部改正され、第12条が削除されるきっかけとなった。
- 1971年(昭和46年)11月29日: 新潟西港沖でリベリア船籍のタンカー「ジュリアン」号が荒天の為、船体が分裂。周囲に油が流出する。
- 1974年(昭和49年)11月9日: 和歌山県南端の潮岬沖でリベリア船籍の貨物船オーシャン・ソリバーン号が高知県のマグロ漁船第十一昌栄丸に衝突し、第十一昌栄丸は転覆沈没。死者行方不明14名。
- 1974年(昭和49年)11月9日: LPG・石油タンカー「第十雄洋丸」とリベリア船籍の貨物船「パシフィック・アレス号」が東京湾木更津沖で衝突し、炎上した(第十雄洋丸事件)。
- 1976年(昭和51年)7月2日: 宮崎県の細島港から広島県の広島港に向かっていた日本カー・フェリー所属のカーフェリー「ふたば」(総トン数1,933t)が山口県のミルガ瀬戸で、パナマ船籍の貨物船「グレート・ビクトリー」(同7,519t)と衝突。「ふたば」は沈没。「ふたば」の乗員28人と乗客58人のうち5人が死亡・行方不明となり車両24台も水没した。日本国内でカーフェリーで発生した初の人身死亡事故となった。
- 1976年(昭和51年)12月15日: リベリア船籍のタンカー「アルゴ・マーチャント号」がアメリカのマサチューセッツ州ナンタケットで座礁。数日後に船体は破断し積荷の燃料油29,000キロリットル全量を流失、極めて深刻な海洋汚染を引き起こす。
- 1978年(昭和53年)9月7日: 兵庫県の神戸港から宮崎県の細島港に向かっていた日本カー・フェリー所属のカーフェリー「さいとばる」(総トン数6,574t)が、愛媛県の来島海峡で大韓民国のタンカー「チャン・ウォン」(同3,409t)と衝突し、転覆後沈没した。乗用車69台とトラック69台とコンテナ4個と多数の積荷が水没する甚大な被害が生じたが、幸い深夜かつ強潮流の悪条件の中から乗員・乗客245人全員無事に救出された。
- 1980年(昭和55年)12月30日: 野島崎東南東沖合約1200キロを航行中のばら積貨物船「尾道丸」の船首部分が突然折損脱落して航行不能となり、「尾道丸」の前方を航行していた鉱石運搬船「だんぴあ丸」が引き返し、1981年(昭和56年)1月1日「尾道丸」乗組員29名全員無事救助する。この事故が乗組員全員無事に救助した初のケースとなった(貨物船尾道丸遭難事故)[1]。
- 1981年(昭和56年)4月9日: 下甑島付近を航行中の貨物船日昇丸(2350t)にアメリカ海軍所属のジョージ・ワシントン級原子力潜水艦ジョージ・ワシントンが海中から急上昇したため衝突し、日昇丸は船底を破壊されたため沈没した。乗員2名が死亡。なお潜水艦が救助せずに現場海域から離れたことに対し、非難された(米原潜当て逃げ事件)。
- 1981年(昭和56年)10月27日: 旧ソ連のウィスキー級潜水艦U-137が、航法の誤りからスウェーデンの領海を侵犯し座礁。死傷者はなかったが、事故発生場所がスウェーデンの軍港付近であったこともあり国際問題化した(ウィスキー・オン・ザ・ロック事件)。
- 1985年(昭和60年)4月23日: 漁船「第七十一日東丸」が樺太南部の漁場で強風のため沈没。8人死亡(第七十一日東丸事故を参照)。
- 1985年(昭和60年)10月7日: 客船アキレ・ラウロ号がパレスチナ解放戦線の男4人に乗っ取られる。2日間の交渉の末、犯人は投降した(アキレ・ラウロ号事件)。
- 1986年(昭和61年)6月16日: 福島県相馬市鵜の尾埼沖付近を航行していた「海洋調査船へりおす」が悪天候下で沈没し乗っていた9人が死亡(海洋調査船へりおす遭難事故)。
- 1987年(昭和62年)2月4日: 銚子港より約十数km沖で乗員22名の青森県八戸市の福島漁業所属のイワシ漁船、第65惣宝丸(80t)が強い横風と波高5mもの高波により沈没。船体2月27日に引き上げられたが、この沈没で死亡8名、不明7名となった。
- 1987年(昭和62年)12月20日: フィリピン客船「ドニャ・パス号」(2640t)とガソリンを積載した小型タンカー「ヴェクター号」(640t)が、フィリピン・タブラス海峡で衝突し炎上、双方が沈没。正確な乗船数は不明だが、少なくとも1576人以上死亡、行方不明。平時における最大の海難事故といわれている。
- 1988年(昭和63年)4月14日: アイルランド向けに輸出される日本製自動車5,458台を積載した自動車運搬船麗神丸(58,000t)がポルトガル沖で座礁。後日、この船の撤去には時間がかかりまた積荷の自動車が錆びて商品価値を失ってしまった事などにより積荷の新車ごと船ごと深度2,000mの地点まで曳航した後に海に沈める事を提案し、ポルトガル政府もこの案に合意した事により実行された。しかし後日これは重大な環境破壊であると日本国内はもとより外国でも批判が高まった。
- 1988年(昭和63年)5月18日: 大阪港中央突堤北岸壁に停泊していたソ連船籍の貨物船プリアムリーエ号(4,870t)が左舷中央客室付近から出火しロシア人旅行客の11名が死亡。船自体は消火活動により17時間後に鎮火し沈没は免れた。
- 1988年(昭和63年)7月23日: 海上自衛隊の潜水艦「なだしお」と遊漁船「第一富士丸」が横須賀港北防波堤灯台東約3キロ沖で衝突。「第一富士丸」は衝突から2分後に沈没し、乗客39、乗員9のうち30名が死亡、17名が重軽傷を負った(なだしお事件)。
- 1988年8月26日: ペルー・カヤオ港外でペルー海軍所属の潜水艦「パコーチャ」に、日本の遠洋マグロ漁船「第8共和丸」が衝突し潜水艦が沈没。艦長ら8名が死亡。なお同艦は元は米海軍バラオ級潜水艦「アトゥル」で、1944年に浅間丸を撃沈した潜水艦であった。
- 1989年(平成元年)3月24日: 原油タンカーエクソンバルディーズ号がアラスカ州プリンスウィリアム湾で座礁、原油が流出した。流出量は推定で1080万ガロンとされ、周辺環境に重大な被害を与えた(エクソンバルディーズ号原油流出事故)。
- 1989年8月20日: 午前1時45分、ロンドンのテムズ川にかかるキャノン・ストリート鉄道橋の付近で、浚渫船のボウベルと、クルーズ船のマーショネスが衝突。マーショネス号の乗客132名中51名が死亡した(マーショネス号転覆沈没事故)。
- 1991年(平成3年)8月、ギリシャ船籍のクルーズ客船、オシアノス (14,000t) が防水設備の修理を終えないまま出航、南アフリカ東海岸沖で沈没した。乗客を残して先に逃げた乗員の対応が非難を浴びる。全員無事。
- 1991年(平成3年)12月、日本からグアムを目指すヨットレース「トーヨコカップ・ジャパングアムヨットレース'92」に参加していた「たか」が29日に悪天候の為に沈没した。乗員7名のうち6名がゴムボートで脱出したが、わずかな食料しかなかったため、漂流から27日目の1992年(平成4年)1月25日に発見されたときには生存者は1名だけであった。生存していた彼は後に「たった一人の生還」(新潮文庫)の題名で手記を出版している。また同レースに参加していた「マリンマリン」も同様に沈没し8名が死亡しており、参加9隻のうち2隻が沈没し14名が死亡する日本のヨットレース最悪の惨事になった。
- 1993年(平成5年)1月13日: タンカー(英国船籍: ブレア社(英国)所有)、英国のシェットランド諸島沿岸にて暴風雨の直撃を受け転覆。乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊、沈没、重油流出。
- 1994年(平成6年)9月28日: スウェーデン船籍フェリー「エストニア号」(21794t)がバルト海で荒天下に転覆、沈没。852人死亡。
- 1994年(平成6年)11月30日: 客船アキレ・ラウロ号が火災を起こし、3日後に沈没(アキレ・ラウロ号事件)。
- 1997年(平成9年)1月2日: ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が波浪により船体を破断し、6,240キロリットルのC重油が海上に流出、日本海沿岸各地の広い範囲に深刻な汚染。船長が死亡、乗組員は脱出。除去作業にあたったボランティアに5名の死者を出す二次被害(ナホトカ号重油流出事故)。
- 1998年(平成10年)9月19日: マニラ-セブ島の定期航路「PRINCESS OF THE ORIENT」(13,599総トン、Sulpicio Lines(フィリピン)所有、元・ブルーハイウェイライン「さんふらわあ11」)が台風7号の嵐の中を航行中に沈没し、死者51名、行方不明者216名を出した。直接の沈没原因は荷崩れであったが、フィリピンでの大幅なデッキ増設工事により船体が不安定になっていたとも云われる。
- 1999年(平成11年)5月21日: クルーズ客船「サン・ビスタ」がマラッカ海峡で機関室からの失火が原因で沈没。速やかな避難誘導が行われたため犠牲者は無し。このことが原因で運航していたクルーズ会社は倒産した。
- 2000年(平成12年)8月12日: ロシア海軍の原子力潜水艦「クルスク」がバレンツ海において演習中魚雷発射管室の爆発により沈没。乗員118名全員が死亡。
- 2001年(平成13年)2月10日: えひめ丸事件。オアフ島沖で宇和島水産高校の練習船「えひめ丸」がアメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンヴィルに衝突され沈没。えひめ丸の乗員35名中9名が死亡。
- 2002年(平成14年)9月26日: セネガル政府所有のフェリージョラ号が、ガンビア沖で沈没。この惨事で少なくとも1,863人が死亡。
- 2002年(平成14年)11月26日: 自動車運搬船「HUAL・ヨーロッパ」(バハマ船籍: HUAL社(ノルウェー)所有)、伊豆大島沿岸にて、暴風雨の直撃を受け座礁。乗員24名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊、航行不能、重油流出、火災発生。
- 2002年(平成14年)12月5日: 日立港で北朝鮮船籍のチルソン号が座礁。重油流出事故を発生させた上、その後放棄された。後に無保険船の日本寄港を制限する油濁損害賠償保障法(改正後の名称: 船舶油濁損害賠償保障法)改正のきっかけとなる。
- 2003年(平成15年)7月2日: 玄界灘海難事故。福岡県沖の玄界灘にて日本船に韓国船が衝突。日本側の1名が死亡、6名が行方不明。
- 2003年(平成15年)7月6日: 上記海難事故の4日後、貨物船「コレックス・クンサン」(韓国船籍)、またしても玄界灘にて、夜間の警戒不備により、漁業取締船「からしま」(水産庁所属)に衝突。「からしま」は乗員全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊、沈没。「コレックス・クンサン」は乗員全員無事、損壊なし。上記海難事故と合わせて事故の規模に対する報道の少なさが恣意的では無いかと問題する者もいるが、同時期に発生した児童殺害事件の方が大きく扱われていただけである。
- 2005年(平成17年)9月28日: コンテナ船「ZIM・アジア」(イスラエル船籍: ZIM社(イスラエル)所有)、北海道・根室沖合いにて、夜間の警戒不備により、サンマ漁船「第三新生丸」(日本船籍)に衝突。「第三新生丸」は乗員7名死亡、船体ほぼ全部を損壊、沈没。「ZIM・アジア」は乗員全員無事、船体はほぼ損壊ないものの、救助活動をおこなわず、逃走。
- 2006年(平成18年)2月3日: サウジアラビアからエジプトに向かって紅海を航行していた1400人乗りのフェリーのアル・サラム・ボッカチオ98がフェリーデッキに載せていた車両からの火災が原因で沈没。1000名以上の死者・行方不明者を出した。悪天候の他に船が老朽船である上に改造で重心が極めて高くなっていたので、消火活動を続けているうちにバランスを崩して転覆したのが原因とされる。なお、生存者の証言によれば船長が真っ先に逃亡したらしい。
- 2006年(平成18年)7月23日: 自動車運搬船「クーガー・エース」(シンガポール船籍: 5万5千トン: 商船三井(日本)所有)、米国・アラスカ州・アリューシャン列島沖合いにて、暴風雨の直撃を受け転覆。乗員23名は全員無事、船体はほぼ損壊ないものの、80度に傾き横転、航行不能、重油流出なし、積荷の乗用車4703台(全てマツダ製)および小型トラック110台(全ていすゞ自動車製)が全損・廃棄される。
- 2006年(平成18年)9月2日未明: 「海上レストランスカンジナビア」として2005年3月まで静岡県沼津市西浦木負で使用されていた現存するクルーズ客船では最古の「ステラ・ポラリス号」が、伊豆箱根鉄道より故郷のスウェーデンの企業に買収された後、中国上海での改修工事の行うため8月31日に出航し航行中、和歌山県潮岬沖3km(水深72m)の海上で沈没。乗船者はおらず、死亡者・けが人は0人。
- 2006年(平成18年)10月6日: 茨城県鹿島港外にてパナマ船籍貨物船「ジャイアント ステップ」が急速に発達した低気圧による暴風のため走錨して座礁、船体切断。10名死亡または行方不明。ほぼ同時・同位置にて、「オーシャンビクトリー」「エリダエース」も座礁し、連続事故となった。同日、女川港沖でさんま漁船「第七千代丸」が高波をかぶって機関停止し、座礁横転。16名死亡または行方不明。
- 2006年(平成18年)11月21日: 海上自衛隊の練習潜水艦「あさしお」が宮崎県沖で訓練航行中、パナマ船籍の貨物船「スプリング オースター」と接触。「スプリング・オースター」は船底部にわずかな亀裂と少量の浸水を起こし、「あさしお」は垂直舵を損傷するも、双方怪我人はなし。 「スプリング・オースター」側は当初潜水艦との接触事故だと気付かなかったという。また一部専門家によれば「あさしお」の損傷は「沈没してもおかしくない」ほどであったともされる。(「軍事研究」2007年3月号)
- 2007年(平成19年)1月9日: ロサンゼルス級原子力潜水艦「ニューポート・ニューズ」(米国海軍所属)、ホルムズ海峡にて、警戒不備により、タンカー「最上川」(日本船籍: 16万トン: 川崎汽船(日本)所有)に衝突。「最上川」は乗員全員無事だったものの、船底部を損壊、航行不能、重油流出なし。「ニューポート・ニューズ」は乗員全員無事、損壊なし、放射能漏れなし。
- 2007年(平成19年)1月18日: コンテナ船「MSC・ナポリ」(英国船籍: MSC社(スイス)所有)、英国・デヴォン州沖合いにて、暴風雨の直撃を受け座礁。乗員26名は全員無事だったものの、船体ほぼ全部を損壊、航行不能、重油流出、約50個のコンテナが沿岸に漂着する。
- 2007年(平成19年)7月6日、サントリーニ島沖で客船シーダイヤモンドが座礁、沈没。
- 2007年(平成19年)7月27日: 貨物船「アルファ・アクション」(ギリシャ船籍: 7万7千トン)、伊豆諸島・利島沖合いにて、夜間の警戒不備により、コンテナ船「ワンハイ307」(シンガポール船籍: 2万6千トン: ワンハイ海運(台湾)所有)に衝突。「ワンハイ307」は乗員全員無事だったものの、船尾を損壊、航行不能、重油流出。「アルファ・アクション」は乗員全員無事だったものの、船首を損壊、航行不能、重油流出なし。
- 2008年(平成20年)2月19日: 海上自衛隊のイージス艦「あたご」がハワイでのミサイル実験から帰投途中、千葉県野島崎沖の太平洋上で、出漁中のマグロ延縄漁船団と交錯した際に船団の一隻「清徳丸」と衝突、あたごの舳先で清徳丸は両断し沈没。乗員の父子2人が行方不明。(イージス艦衝突事故)
- 2008年(平成20年)3月5日: 神戸市垂水区沖の明石海峡付近で、「第五栄政丸」が「オーシャンフェニックス号」に衝突。その後「オーシャンフェニックス号」が「ゴールドリーダー号(ベリーズ船籍)」に衝突し、「ゴールドリーダー号」が沈没。乗組員9人のうち、3人が行方不明。
- 2008年(平成20年)6月22日: フィリピンシブヤン島沖で、台風6号の影響によりフェリー「プリンセス・オブ・ザ・スターズ」が沈没。乗客700人以上が死亡・行方不明。
- 2008年(平成20年)12月7日: 韓国・秦安近海に停泊していたタンカー「ホベイスピリット」にサムスン重工業所属のクレーン船が衝突。12547klの重油が流失して韓国史上最大規模の海洋汚染となった。原因は本来は曳いていたタグボートが迂回しなければならないところ、近道をしようとしたが波浪によってコントロールを失ったものと考えられるが、韓国では停泊していたタンカーに責任があるとし、インド人の船長と一等航海士に有罪判決が下ったことから、インドではサムスン製品の不買運動が発生、各国の船員組合が韓国行きボイコットしようとするなど波紋が広がっている。
- 2009年(平成21年)10月27日: 海上自衛隊の護衛艦「くらま」が平成21年度観艦式から帰投途中、関門海峡において、韓国籍の貨物船「カリナスター号」に衝突され護衛艦乗組員6人が軽傷。
- 2009年(平成21年)11月13日: 東京発志布志経由那覇行のカーフェリーありあけ(マルエーフェリー、乗員21名乗客7名)が三重県熊野市の沖合を航行中に船体が傾斜、救難信号を発した後熊野港に避難を試みるも座礁。乗員乗客は全員救助されるが船体は横倒しになった。
参考
⇒ 海難
⇒ 海難救助
⇒ 船舶消火
⇒ 救難設備
⇒ 救命艇/救命筏
⇒ 遭難信号
⇒ ライフジャケット 救命胴衣
⇒ 油防除
⇒ 曳航
新規作成日:2010年4月16日/最終更新日:2010年4月16日