元寇

一二六〇年、ジンギスカンの孫、クビライが大帝国「元」の王「汗」に即位してから遂に蒙古は、、南宋(上海付近)を滅ぼして中国全土をその手中におさめた。一二六八年、蒙古は日本に使者を送り、国書が初めて大宰府に到着したものの、日本側は返書も送らず元の皇帝、クビライの要求を無視した。
日本は「鎌倉時代」で、北条時宗が執権の時である。
時宗は、元は「征服民族」であると云う意識と、時宗の幕府そのものが「武断政策」であったので、断固として之をはねつけた。

文永11年(1274)正月、フビライは高麗に軍船300艘建造を命じ、3万5千人の工匠や人夫が各地から動員され、突貫工事をもって半年間で完成させた。300艘は大船で「大小900艘」と元に報告されている。

文永の役

文永十一年(一二七四)10月3日午後4時ごろ、月浦(がっぽ・馬山)を出発、兵は、蒙古人・女真(じょしん)人・中国人合わせて約2万人、高麗軍8千人、舵とり・水手6千7百人、総勢約3万5千人。船は大船三百艘、快速船三百艘、小舟3百艘、合計9百艘。10月5日の午後4時ごろ、対馬の西海岸の小茂田の海岸にあらわれました。守護少弐氏の代官である宗資国すけくには80余騎でかけつけ、翌早朝、通訳をとおして来意を問いましたが、敵軍は船上から矢を放ち、7、8艘から1千人ばかり上陸をはじめた。
資国らは、たちまち、討ち死にし、小茂田の家屋は焼き払われ、焦土と化した。この激戦の中を、小太郎と兵衛次郎が抜け出して博多に渡り、元軍の対馬襲撃を報告している。
文永十一年(一二七四)十月五日、元と高麗の大軍は、対馬を侵し、十四日には壱岐の北西海岸勝本・鯨伏方面に姿を現わした元軍は2艘400人が上陸しまし占領した。この際、島の男は見つけ次第殺し、島の女は掌に穴を開けられ縄を通して船縁に吊るされたと言う。後世「蒙古高句麗(むくりこくり)がやってくるぞ」と子供を諌めるときにいわれる所以である。
そして、博多湾から上陸した。元軍は、今津や百道海岸に上陸し、太宰府を攻略せんとした。一部は、志賀島に上陸して来たので、志賀島の住民は、和白、立花を経て、宇美、太宰府方面に避難したが、逃げおくれた者は、惨殺されたらしい。
日本軍は長槍と弓と太刀で日没まで死力を尽くして戦ったが、思いの他強い短弓と、毒矢、鉄砲のような最新武器と戦術の相違で全く勝ち目はなかった。
日本軍は上陸してきた元軍との戦闘になると、兵器が粗末で(日本は弓、元軍は鉄砲)敗退するばかりであったが、夜になると地の利を知っている日本軍の「ゲリラ戦」に大打撃を受け、全員船に逃げ帰ってしまった。
二十一日の朝、夜が明けると、博多湾の元船は皆引き上げてしまっていた。しかし志賀島に難破して、逃げおくれた一隻が、志賀島西海岸(供養塔)に漂着したので、捕まえた百二十人位の内、幹部級五人を鎌倉に送り、他の者は引き並べて頸を切ったという。
ところが、その夜、突然の大嵐となり、一夜にして元の船を沈めてしまったのである。
後日、避難先から帰ってきた志賀の住民は、この地の死体等をこの地に埋葬して、供養塔を作り、「首切り塚」「首切塔」と云って、供養をしつづけて来た。

弘安の役

弘安2年(1279)2月、南宋皇帝が没した翌日、早速、宋の支配下だった楊州など4州に日本征伐のための「戦船六百艘」の建造を命じました。
6月には高麗へ「戦船九百艘」の建造を指令しました。
8月には4年余も消息のなかった元使五人の斬罪の模様が、4人の逃げ帰った水手から知らされ、フビライは一層日本への征服の気持ちを高ぶらせました。
フビライは遠征について、次のように指示しました。
(1)蒙古人・高麗人・中国北部の漢人でできた東路軍4万人は合浦から出発する。(軍船900艘)
(2)中国南部の南宋人からなる江南軍10万人は江南から出発する。(軍船3500艘)
(3)そして、両軍は壱岐で合流して、日本を攻撃する。
(4)仲たがいをするな。
(5)占領地の農民達をむやみに殺すな。
(6)鋤すき・鍬くわ、種モミなど携行し、長期戦に備えよ。

二度目の遠征は、文永の役から七年後のことであった。
東路軍、江南軍を合わせると十四万にもなる大軍である。ところが、またも台風に合ってしまう。蒙古の船団はその七、八割を失い、日本軍に追いまくられて逃げ帰ったのである。
弘安四年六月六日亦元軍が攻めてきたが、今津から名島まで防塁が築いてあったので、防塁の無い志賀島にだけ上陸したので、ここが弘安の役の主戦場になった。しかし六月十三日元軍は江南軍と合流すべく、伊万里湾に引き上げていったが、ここで台風にあい全滅した。
この両役の日本軍の総指揮をしたのは、時宗の命を受けた、時の鎮西奉行(九州奉行)の、太宰府に居た、小児経資である。

蒙古船
Pict_0217.

松浦

現在の地名「松浦市・北松浦郡・東松浦郡など」は「まつうら」と発音するが、本来は「まつら」と発音していた。
松浦史料博物館も、正式には「まつらしりょうはくぶつかん」。
また、平戸藩主の末裔も「まつら」と名乗っている。
松浦党は現在の佐賀県から長崎県にわたり位置しており、「東・西・北・南」の松浦郡各地や長崎県の壱岐を根拠地にしていた。
平戸の松浦氏もその松浦党にその出自をもつ。
松浦党から近世大名まで生き残ったのは、平戸の松浦氏と五島の宇久氏。
佐志氏自体は存在し、房とその子供たちは元寇のおり戦死したのは事実であるが、NHK大河ドラマ「北条時宗」に出てきて松浦党の主となったとされる「桐子/とうこ」については存在は確認できず、フィクションのようだ。
−財団法人松浦史料博物館:久家孝史 氏の回答より−



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新規作成日:2002年2月7日/最終更新日:2002年2月10日